2010-06-27

風のかたち Shape of wind

「子供は死んではいけない人たちなんだ」

がんを告知された子どもたちのサマーキャンプを毎年欠かすことなく続けているスマートムンストンの代表、細谷亮太医師の言葉から映画は始まった。

死と向き合わざる得ない病気も医療の発達で、10人に7人は助かる病気になって来たという。ただ、再発の危険性もあるために定期的に長いスパンで検診を受けなければならない病気でもある。

そんな子供たちも発病から数年もすれば、大人になる。

病気と向き合う人たちに、世間はテレビドラマに描かれるような悲劇性を当てはめ、同情の目を向ける。生きようとする人たちに余命を見てしまう。

がんを告知された子どもたちのサマーキャンプで、元患者の人たちはそんな偏見をあざ笑う。あざ笑うことで、生きてやるとという意思表示を示す。

支援する医師たちは、入院中子供たちが叶えられなかった「人と会う」事と「太陽と大空を満喫する」事を叶えように準備を続ける。

診察の時に問診する医師も、サマーキャンプでは子供たちの成長を喜ぶ小父さんになる。小父さんになれたことを喜ぶ医師たちは、この一年に亡くなった子供たちを思い返す。

「生きてるものは、みんないつかは死ぬんだよ。これは仕方がないんだ。でも、麻衣ちゃんも先生も、何も今すぐ死ぬわけじゃないよ。まだまだ頑張れるよ。

だから泣いてないで、どんな風によくするか、よくなったら何をしたいかな、なんて考えた方がずっといいよ」

「誰でもが死んじゃうって言ったけど先生が死んだら麻衣を治す人がいなくなっちゃう。パパも、ママも、お兄ちゃんも、それからおばあちゃんも死んじゃダメ!」

「死んじゃダメ!」の押し問答は何で生きているかの押し問答になる。

上映会の会場には映画に出ていた元患者さんの姿もあった。

ここにいること、それが生きることなんだよね。

2010-06-26

レーダーチャート Radar chart

欧米では人々情報格差障がいであるとして、例えば段差があれば車いすでは行けないだとか、点字ブロック白杖使用者の道標であるとか、本人が誰の助けを借りなくても情報確保出来ることが必然であり、権利であるとされている。

公共の環境整備は日本でもかなり整ってきてはいるけれども、ネットが情報を得るツールになってきている今日、公共のサイトのアクセシブル(利用可能)はどうなっているかを毎年、調査している有限会社ユニバーサルワークスさんの今年の結果を観ている。

音声化対応・操作性・可読性レイアウト・汎用性の5点のレーダーチャート大きさがそのサイトの利用可能度を示しているのだけれども、ネットにおける情報格差に陥りやすい視覚障がい上肢障がいの使い勝手を一定の規則に沿って調べたものだ。

そのチェックリストを観ると、公共性である配慮や特定の画面サイズでしか情報を得られなかったり、文字データとして、音声変換が可能かどうかなどの項目が並んでいる。

内乱続くアフリカで反対勢力の若者の指を切り落とし投票を妨害したという事例など障がいを持たされた者の情報伝達の手段は案外もろいものであり、その情報格差こそが障がいなのだという考え方が広まっている。

そして、コンピューターのネット社会にとって、互いの情報を環境を問うことなく得られる手段として、ネットのページがあるとするセマンティック・ウェブとアクセシブル(利用可能)が絡み合って、様々な環境に対応出来るウェブページが今後、更に求められるとされている。

北海道のサイト札幌市のサイトはレーダーチャートの大きさがこぢんまりしていたり、音声対応にのみ偏っていたり、IT立国を謳うには利便性の配慮があまりなされていない。

それはすなわち、合理的に使い廻しが出来ずに余計な手間を増やし、市民税、道民税を浪費しているとみるのは早計だろうか?

政令指定都市の中で最も高齢化が進むとされる札幌市において、情報格差はどんな具合なのか気に掛かる。

ちなみに札幌市バリアフリータウンマップなる車いす利用可能の紹介サイトで、ショッピング・飲食のページで札幌の繁華街でもある中央区で紹介されたいるお店は29件とはどこの田舎町と思ってしまうほどずさんな調査データが恥ずかしげもなく載せられている。

お宅の都道府県のレーダーチャートはどんなものですか?

2010-06-24

眠る男 sleeping man

「眠る男」という映画がある。そのタイトルが気に入り、観たいと思いつつ、テレビで放映した時に録画をしているのだけれども、まだ観ていない。

おそらくそのタイトル「眠る男」に僕は惹かれているのだろう。

そういえば、中学校の頃だったかに公開された映画に、萩本欽一主演だかで、「俺は眠たかった」というのがあり、観てもいないのに印象に残っているのは、「眠る」事に自分自身、惹かれるものがあるのかも知れない。

この頃、それが顕著で、何故か知らないけど、疲れやすく、仕事帰りに行くスーパー銭湯で小一時間、ベンチの形をしていて、背中に温泉が流れる寝湯で眠りこけている。

持病の脳性麻痺で歳を取ると首筋の頸椎あたりの負担が高まり、疲れやすくなるせいかも知れないし、肝炎による疲労感かも知れないけど、とにかくこの頃は「眠る男」になっている。

長年勤めているところで、僕より入って日が浅い奴らがイニシアティブを取ろうと僕の長年の実績を無視しているストレスもあるだろうけど。

別に自分のやってきた事を評価して欲しいとかという気持ちはないし、それが自分の重荷にもなりたくはないけれども、イニシアティブを取ろうとする割には職場の人間関係など何も考えずに動くその危うさにストレスを感じたりもする。

人から学べば判ることなのに、その場の得失点にやっきになって、長年培われたノウハウすらも知ろうとしない。そんな危うさはこの世知辛い時代、どこにでもあることなのだろうけど、それが自分達の生活基盤を壊している事に気がついていないような気がする。

前述の「眠る男」は事故で寝たきりになった男の視点から世の中を見た映画らしいけど、この頃、眠るほどに安堵感を得られるような気がする。

老兵はただ眠るのみ。釈迦に説法するより、自分の居場所を見つける方が自分のためのように思えるこの頃。

2010-06-18

グラデーション Gradation

久々にCSSの最新技術を勉強していて、Webの世界はコンピューター言語によるページ作成がどんどん進化していっているのを実感した。

以前は画像加工に頼っていたグラデーションやぼかしなどもCSSで実現可能になってきており、貼り絵的な旧来の非コンピューター的な作り方はページを表示される上での余計なトランフィクをともなっていたものが、CSSにデザインを集約することで、トランフィクを軽減し、映像などの配信をスムースにさせるネット技術にも繋がるのだろうと思った。

押し付けのデザインではなく、利用者がその閲覧環境にあった見せ方を提示することで、情報格差をなくすとするユニバーサルデザインはそれゆえ固定のイメージにこだわると成り立たなくなるものであり、それこそがコンピューター世界が最も得意とする分野にもなるのだろう。

CSS技術の他、ページの特定の箇所を表示してみせたり、並べ替えが可能になったりというユーザーインターフェイスの技術は覚えるには難易度が高いけど、その技術を知ることが、ページに書かれていることを「知ること」「理解出来ること」「操作出来ること」「永続的に使えること」のウェブアクセシビリティにもなってくるのだろう。

暗くて字が読めない、騒音で音が聞こえない、手がふさがり操作出来ない、急いでいて画像や動画の表示を待っていられない。これらは人間の生活の上であり得ることであり、なおかつ、障がいを持つ者たちと共用出来る不便さなのだから。

CSSのグラデーション設定のサンプルのひとつをとりあえずご紹介しておきます。

/* For WebKit (Safari, Google Chrome etc) */ background: -webkit-gradient(linear, left top, right top, from(#fff), to(#060));
/* For Mozilla/Gecko (Firefox etc) */
background: -moz-linear-gradient(left, #fff, #060);
/* For Internet Explorer 5.5 - 7 */
filter: progid:DXImageTransform.Microsoft.gradient(GradientType=1,startColorstr=#FFFFFFFF, endColorstr=#FF006600);
/* For Internet Explorer 8 */
-ms-filter: "progid:DXImageTransform.Microsoft.gradient(GradientType=1,startColorstr=#FFFFFFFF, endColorstr=#FF006600)";

グラデーションのテストです。

2010-06-17

訳わかんない It is not possible to understand.

友だち何人かとの飲み会の帰り、地下鉄でコギャル風の女の子二人、浴衣姿で乗り込んでた。

札幌の夏を告げる神宮祭の夜店の帰りなのだろう。あいにくの雨で浴衣も少し濡れていた。

「なんで初めてあった小母さんに『死ね』といわれなきゃならないの。訳わかんない。」

地下鉄に乗るまでの道筋でなんか嫌なことがあったのだろう。コギャル二人はフップンをはらすようにそうしゃべり、夜店名物の飴でくるんだリンゴにかじりついた。

初めてあった小母さんは『死ね』という流行り言葉を使いたかったのだろうね。

今の大人たちは確かに訳わかんない。

コギャル二人が大人びて見える夏の始まり。

2010-06-13

疾走 Dash

自己顕示欲が強い世界で、自分を「いない者」とすることで生き延びた少年の話は「いない」が故に人々に玩ばれ、玩ぶ自己顕示欲が強い者たちもまた「いない者」と何も変わらなく社会に玩ばれる。

「いない者」として生きた少年だから、見えてくる社会の滑稽さは社会にしがみつき、自分の居場所すらぶち壊してしまう人々の愚かさを描いているようにも思えてくる。

重松清長編小説疾走」の怒りは弱い者同士が傷つけ、殺し合う社会に刃向かうには自分を「いない者」とすることでしかありえない寂しさのような気がする。

臆病な猫たちは「強い者」に可愛がられるように擦り寄り、「弱い者」を作って、自分の鬱憤をはき出す。

殴られ、蹴られ、衣服をはぎ取られ、身体を玩ばれる「弱い者」と「強い者」に可愛がられる者どもの哀れさは何も変わらない。

ただ、人の痛みを判るかどうかの違いだけで。

2010-06-11

送り火 Farewell fires

重松清短編集送り火」の表題作は、マンションローンを支払うために無理をして死んだ父を「莫迦みたい」と思っている娘夫婦がひとりその父が残したマンションの一室で暮らす年老いた母を気遣い一緒に暮らそうと説得しに行く話だった。

父の生き方を認めようとしない娘に母はお父さんはお前の旦那さんと同じだよと云い、家族の笑う顔が見たくて、一生懸命無理してくれた、と話す。

娘は旦那は家族と一緒に楽しみたがるのに、お父さんは一緒に楽しんでくれなかったと父と楽しめなかった恨み辛みを語る。

自分はどうでもいいんだよ。家族の笑い顔が見られればよかったんだよ。

人と楽しみを分かち合うのは、亡くなった人を思う送り火と同じなのかも知れない。

昨日、友だち数人と昔の物を集め、展示しているレトロスペース坂会館に行き、昭和の時代を知っている自分を思い返し、そのぬくもりの中に重松清の短編集「送り火」を思い出した。


レトロスペース坂会館の店内

2010-06-09

ミニロト mini Loto

先週、久しぶりに運試しにと、銀行ATMで買えるロトくじを買った。買ったのは、ナンバーお任せの5週間有効のくじをミニロト、ロト6、それぞれ一組

ロトくじ抽選発表は結果が発表になれば、メールで当選番号を教えてくれるサービスに登録しているので、忘れててもメールが届くわけで、昨日も帰宅後、その当選番号を自分が購入したくじナンバーと一致していれば教えてくれるエクセルで自作した簡単プログラムに打ち込んでみる。

当選番号、18 19 20 28 29、ずいぶん連番が多いなぁと思いつつ、打ち込み、どうせこんな番号じゃ当たっていないだろうと、結果を表示するシートタブを開くと、購入くじと同じ番号が4個もある3等当選、12,400円なり。

外れた番号は14で、ミニロトのボーナス数字は13。これが一致していれば、2等当選、243,900円だったけど、欲を言えばきりがない。

運気が芽ばえ、何かいいことあるかな、子猫ちゃん。と夢は夜開く。夢で逢いましょう

2010-06-05

区役所にて In the ward office

B型肝炎の医療助成の制度が変わったとかで、助成対象が課税額に応じて変わるらしく、世帯が住民税非課税の僕にとっては影響ないのだけれど、助成を実施している北海道庁から申請の送られてきているので、手続きをすべくこのところ動き回っていた。

通院の時に医療助成の診断書を書いてくれるよう主治医に頼み、外来の看護婦から送り先の自宅住所を封筒に書くように云われ、切手を買って、貼り、手渡したのだけれど、2週間経って送って来なく、問い合わせの電話をしてみると、担当看護婦は調べ、「出来ているので取りに来て下さい」と答えかけるので、「あのぅ、送ってくれると」と言いかけると、「あっ、これから送ります」と言葉を濁しつつ、忘れていたのだろうと判明する。

催促から数日後に診断書が届き、昨日、予定が何もなかったので、区役所に申請を提出に出かける。

自宅から区役所は交通の便も悪いところにあり、難儀だけれど、その前に街中の別な区役所で問い合わせたところ、手続きは住んでいる地域の管轄部署でお願いしますといわれたので、大儀ながらも出向いてみる。

指定の部署の住所案内を道庁から送られてきた封筒に入っている一覧で確かめても、住所に保険センターとあるだけで、区役所内にあるのかどうか不安を抱きつつ、区役所内を歩き回ると、なにやら見覚えのある風景。B型肝炎の医療助成の初回申請時にも同じく迷ったよなと思い出し、開店休業状態で施設が遊んでいる区役所二階に設置された保険センターから一階の福祉窓口の奥にある保険センターの窓口へと迷い道。

やっと辿り着いた保険センターの窓口には先客がいて、対応する職員の他は窓口の様子をうかがう区役所職員はなく、歩き疲れたこちらも少しいらつき、部署内の職員たちを見回すとやっと気付いた女の職員と年配の男の職員が対応にあたって下さった。

「健康保険証はありますか」と問う男の職員に「そんなの聴いてないよ」のボクちゃんは持ってこなくても何とかなるだろうと思っていると、そのおじさん、奥にいる若い男の職員に確認とって、「なかったら、手続き出来ないので、持ってきて下さい」といとも簡単に云う。その態度にこちらもカチンと切れて、「それならそうと、判りやすく書類に書いて下さい」と云い、「せっかく来たんだから、記入漏れがないか、確認してくれ」と提出書類の確認を求めると、おじさんも逆切れしたのか、記入漏れの箇所をチェックし、こちらに書くように催促し始める。

特定疾患で、利き手不自由の身体を気遣って、初回申請時には親切に対応してくれた窓口ととは打って変わってのこのおじさん、おそらく新年度の人事異動で配置換えになったのだろうなぁと思うほど配慮のかけらなく、記入漏れの病院住所を書かせるために、診察券を出すように云って、診察券をこちらに見せつけて、病院住所を書かせようとする。が、しかし、病院住所を書くところに診察券の差し出したので、こちらは「それじゃ書けないでしょうが」と喋ってもおじさん職員は何のことか判らずにボケーとしている。

詰まらぬやり取りですら、仕事意識が感じられないおじさんに腹を立てつつ、その場はそれで終わった。

このまま、別な用事を済ませようか、それともB型肝炎の医療助成の手続きを済ますためにいったん家に帰り、保険証を持って、また区役所に行こうか、迷った末に、嫌な想いは今日一日で済ませたいと、家に帰り、保険証を持って、また区役所に行く。

二往復で二時間あまりを費やし、区役所の保険センターの窓口に着いた時にはだるーい感じの疲労感があったけど、対応してくれたのはあのおじさん職員ではなく、若い男の職員だったので少し救われたと思いきや、住民票と世帯全員の所得証明書を担当する課に行き、貰ってくるようといわれ、「ちょっと待ってよ」という感じで、身体が疲れている事を告げるけど、代理で住民票や世帯全員の所得証明書は取れないことを聴かされ、先のおじさん職員とのやり取りを見ていたのか、必要書類に書く住所、氏名を代筆してくれたお陰で、もう一頑張りする気力が出て、区役所内を歩き回り、ようやくB型肝炎の医療助成の手続きを終える。

疲れやすく無理出来ない特定疾患の更新手続きで、当人でなければ出来ない事をいくつも用意する役所の書類至上主義もあきれるけれども、自分のテリトリーから一歩も出ようとせずに、サポートすらもしない役所職員って何様なんだろう。

ふと、以前、銭湯の人の「今、公務員バッシングが凄いから大変ですね」という声かけに、銭湯に入りに来ていた区役所職員が「札幌市は公務員バッシング、関係ないから」と平然と答えるその感性が少し理解出来た気もするけど、そんな人間と関わらなきゃいけない札幌市民であることが腹立たしい。

2010-06-04

震えるまぶた Trembling eyelid

このところ、所用、雑用がまたまた重なり、疲れているのか、左目の下のまぶたが軽い痙攣を起こしている。

すこし気になり、ネットで「まぶたの痙攣」を調べると、肩凝りもあるので、顔面神経痛ぽい。

B型肝炎、もしくは抗ウイルス剤の副作用も気になり、それも調べてみると、そちらでは当てはまる事例がなかったので、大丈夫かとは思うけど、身体が疲れているのは確かなようだ。

週末の職場の人間関係やら、年度替わりの障がい、特定疾患の諸手続、退職後の手続きなどやることも多いけど、慢性になっている肩凝りから来る身体のだるさがそれに追い打ちをかけているような気がする。

そういえば「まぶたの痙攣」の前に「目のかすみ」なんかもあったからその延長なのかも。

病院の検診を受けようかとも思うけど、神経系の外来は大きな病院しかなく、それこそ疲れてくるほど混んでいる。

催促してやっと届いた特定疾患の診断書を街中にある役所窓口に出すと、住んでいる地域の窓口に提出してくれと、今時それはないよなぁの行政ネットワークの貧しさにも疲れてくるし、便利な社会とはしゃぐ人の脳天気さが羨ましくなってくる。

こんな事を書いているとまたストレスから「まぶたの痙攣」が酷くなりそうだから、この辺にしておくけれど、ストレス社会は中途半端な便利さにあるんじゃないかあ?