安直に考えたがる世評と裏腹に、この映画の描く世界は深い。
何故、殺したか。何故、殺されたか。だけが物語ではなく、何故、殺してしまったか、何故、殺されてしまったか。も物語る。
世の中、人間同士一対一の場面なんかあり得ない。それなのに、一対一の場面があり得るかの如く、語り、やり過ごす世評もまた「悪人」なのだろう。
強がり、見栄張り、生きる人間があたかも幸福ではなく、強がれず、見栄も張れず、生きる人間が幸福であろうとするように、この映画は苦しみもがく人間を追いかける。
連日続いた残暑が嘘のように、ここ一週間は底冷えの寒さが身に染みる。
「肝炎友の会」の会報が届き、「冷えと病気について」という一文になるほどと感心し、案外知らない身体の仕組みを改めて教わった。
「半世紀前の日本人の平均体温は36.9度」と書き出しにあり、それに比べる今の日本人の平均体温が示されていないのが気になるけれども、この半世紀、日本人の生活は快適さを求め、冷蔵庫の普及、薄着の日常化などなど、身体を冷やすことが快適であるかのような環境を追い求めてきたけれども、「冷えと病気」の相関関係を考えると、身体の冷えから、肩凝り、便秘、関節痛、生理不順、頭痛、倦怠感等々が増えていく。「人間の身体の中では生命活動を維持するため、常に様々な酵素が活動している。」らしく、その酵素が活発に活動出来るのが、直腸温といわれる深部体温が約37、38度で、体温が一度下がると酵素の活動は50%に落ちるとされており、身体の新陳代謝の鈍化がメタボや様々な病態に関係するらしい。
「蛋白質の合成酵素が働かなければ、身体に必要な物質である脳伝達物質、セロトニン や各種のホルモンが作られなくなり、精神病やホルモン異常の発生が懸念されたり、遺伝子の修復酵素の働きが悪いとアルツハイマー病を誘発されかねない。」など、「身体の冷え」から来ると思われる事例が述べられている。
肝機能が役割を担っている血液の浄化も、赤血球が酵素を局所に運び、白血球が免疫を高め、血小板が損傷を修復し、血漿(けっしょう)が栄養分を局所に運び、老廃物を排せつ処理してくれる。「身体の冷え」は血液の循環も滞らせるから、代謝障害、免疫不全、損傷治癒不全などが起こりうる。
「身体の冷え」から来る諸問題は今話題の「健康増進」では何故か脚光を浴びないでいるけど、「健康増進」をアピールするならば、快適さを求める「身体の冷え」をもっと取り上げるべきなのではないか。そんな思いが募ってくる。
まずは自分の体調改善として、肩凝り、下痢、軟便などなど解消のため、身体を冷やさない配慮をいろいろ試してみようかと思うところ。
辛い思いをしたい人は「身体の冷え」の快適さを満喫すればいいだろうけど。
ここ数日で一気に秋めいてきたこの頃、暑い盛りから読み始めていた重松清の「スポーツを「読む」」を読み終えた。
タイトルの「スポーツを「読む」」にあまりスポーツ・ニュースに関心のない僕としては、食指がわかなかったのだけど、重松清、文庫化、新書化、読破を目指す物としては好き嫌いはいけないと読んでみた。
プロスポーツに関する重松清の文章は小説の中でしばしばくどい位に書かれていたりするから、そのたぐいなら、つまらないだろうと思いきや、スポーツ・ライター指南であり、専門にスポーツ記事を書き連ねるライターだけではなく、著名人が書いたスポーツにまつわる記事も考察しており、スポーツからのぞき見る著名人の世界観やその題材となったプロスポーツの世界の逸話、はたまた、スポーツから見えてくる日本のお国事情など、なかなか読み応えがあり、面白かった。
それにしても、ここに挙げられたライター陣で、寺山修司、三島由紀夫、開高健、山口瞳、大橋巨泉、阿久悠、梶原一騎などの個性の強烈なことには今さらながら、恐れ入る。
「昭和」が面白かったのは著名人の個性のしのぎ合いがあったからなのだろうと思うし、その題材となったスポーツ界も、長島、王、金田から野茂、イチローに続いた野球や力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木のプロレスなどなど花形選手を世に送り出したから題材にもなり得たのだろう。
文化の衰えが社会の衰えでもあるからこそ、重松清は今のライター志望の指南として、「スポーツを「読む」」を書いたのだろう。
スポーツする者の原動力は観客の声援であり、観客(ライター)の原動力はスポーツ選手の頑張りなのだろうから。どの世界にも云えることだけど。
B型肝炎を患ってから、ウイルスの増加を抑える抗ウイルス剤・バラクルードを服用するようになって、その副作用である下痢や軟便には入院当時から悩まされた。
冬の入院、春の職場からの退職、夏の猛暑という身体的にも疲れる事が続き、精神的な影響もあるかも知れないけれども、下痢や軟便は今も続いており、そのせいかどうかは判らないけど、身体が疲れやすくもなっている。
週末の仕事の最中も、ひっきりなしに便通を感じ、トイレに引きこもり状態が続いていて、用を足すたびに、ある程度の便通はしっかりある。
B型肝炎の方は、血液の数値も安定していて、便通があるのは、排せつされるべき物が身体に溜まらないのだからいいんだろうとは思うけど、下痢や軟便が続くと大腸廻りの心配も気になる。
昨晩は仕事疲れからか、身体が重く、夜寝る時も少し肌寒く感じられたので、タオルケット一枚の夏の寝具から掛け布団を出してきて、床に着いた。
身体の冷えがお腹具合にも影響するみたいだし、少し暖かめにするのがまずは改善策かなと。
日中と朝晩の気温差が大きくなるこの時期、自分の身体をいたわることで、秋を感じたりする。
この頃、HTML5とCSS3の辞典を買い、HTML5を試してみたり、今話題の電子書籍の作り方を覚えたり、またWebの事を勉強している。
先月公示されたJIS X 8341-3のウェブアクセシビリティのブログ記事のアラートなども登録して、JIS X 8341-3の評判などもチェックしているのだけれども、ここ最近は月初めに「規格の策定者が解説する JIS X 8341-3:2010」というセミナーが東京で行われたので、そのレポート記事が多く届き、その感想を読み、なるほどねとこちらも勉強になっている。
そのひとつ、Niftyのフォーラムでもお馴染みだった水無月ばけらさんのえび日記の記事が「だよね」といいたくなる記事だった。
「WCAG2.0を解説したJIS X 8341-3:2010」みたいな感じで、その試験方法や実装方法がいまいち判りにくいという感じを僕も持っていますから。
水無月ばけらさんのような現場サイドの人の視点はやはりためになる。
WHOの障がい者の概念の見直しから始まったのであろう「障がい者、高齢者への配慮」は「加齢も障がい」「怪我や妊婦など一時的な物も障がい」とすることで、誰もが障がいを抱えるとする視点は面白いと思うし、工業規格の指針となった日本提案の「ISO/IECガイド71」は障がいを問わずに、人の能力を問うていた。
過度な能力主義に向かう現代、この警告は有効かと思うけど、日本が規定している障がい認定基準で一定程度の生活を保障されている人たちも、「みんな障がい者なんだから」とその保障をなくすような愚考だけは避けて貰いたい。
公共の場を喫煙になど健康増進を過度に謳うWHOは社会保障費の抑制を狙っているのだろうから。
しかし、人間とコンピューターの共存は結局、「人は何で糧を得るのか」の問いに行き着くと思うのだけど、WHOはそこまで人の健康を考えているのだろうかと思いもするのです。
若松孝二って、この程度の監督だったっけ?というのが、正直の感想。
男と女。侵略と虐待。二分法で貫かれた戦時下のドラマは、「芋虫」になり、軍神様になった兵隊とその妻の家庭において、その時代を描く。
かつて、ベットと男と女があればドラマは作れると、ピンク映画(今でいうアダルト映画)を作った若松孝二らしいといえば、らしいけど、その時代の洞察力はピンク映画でゲリラ戦法を撮り続けていた頃から比べると、ずいぶん平板な物になっていた。
「芋虫」になった兵隊は戦意を消失させるから、家に帰さず、病院で始末しろ!と描いた増村保造監督の「赤い天使」の生きながらえたは兵士の恥と描かれたのに対し、ここでは軍神様であるし、殺し、人肉を喰らい、戦後、朝鮮戦争の軍需景気で社長になった奴に、「お前、仲間を殺して、喰ったろう」と責め続ける原一男監督の「ゆきゆきて神軍」に比べても随分ナイーブな物語。敗戦を迎えて、さぁ、これから軍神様が「芋虫」と蔑まれる日本の差別が始まるのかなと思いきや、あっけなくエンドロールはないっていうの。
若松孝二って、強い女が好きで、傷痍軍人のしたたかさには興味がないんだろうなぁと思いもした。
「これが戦争だ!」莫迦云え、こんなの戦争じゃないっちゅうの。元ちとせの「死んだ女の子」が浮いて浮いて聞こえてきたのそんな不満からなのだろうなぁ。
「へえ、ウォシュレットって、メイド・イン・ジャパンなんだぁ」と教えてくれた映画「トイレット」
調べてみると、アメリカの医療器具として開発された物を一般向けに改良したもので、医療器具と一般商品の中間に位置する「共用品」の代表格のような製品がウォシュレット。
マイノリティにこだわる映画作家、荻上直子がカナダを舞台に、性格がバラバラな三兄弟と日本人のお祖母ちゃんの交流を通し、好きなことをする素晴らしさをウィットを込めて描いている。
オタクの長男は「オタクに同情は失礼だ」と言い切り、わがまま長女は「私はフェイク(見せかけ)じゃない」とやりたいことを模索する。パニック症候群の引きこもりの次男はいつも家にいるお祖母ちゃんとの交流から少しずつ自信を取り戻していく。
「やりたいこと」を「やってもいいのか」と躊躇している人たちへ、もたいまさこの祖母ちゃんはエールを送る。
荻上直子ともたいまさこの名コンビの健在ぶりを堪能しつつ、「やりたいこと」を「やってもいいのか」と躊躇し、神経衰弱になりかけている自分にエールを貰ったみたいで、「うん、頑張る」とエンドロールを眺めていた。
若い人たちとお金の話をする機会があり、話し合い、借金の苦しさを語り合ったのだけれども、お金の本当の怖さが判っているのか、ふと疑問に思い、余計なことを云ってしまった。
僕自身、お金の本当の怖さを知っているかと云えば、知らないと思うのだけど、生みの母、育ての母、共に口減らしとして、家を出て、苦労した話を聴かされているからだろうか、お金の本当の怖さだけは余計なことを云いたくなる。
「口減らし」「食い扶持減らし」兄弟の多い家庭で、食べるものもなく貧しかった時代に、奉公に出されたり、女郎さんとして売られたりした子供の事を「口減らし」「食い扶持減らし」と云ったそうである。
生みの母は敗戦間もなく、まだ年端もいかない甥子、姪子が沢山いた本家を出て、札幌に出て来て、親戚の飲み屋や幼馴染みのスナックなどで働き、本家で年老いた祖父に仕送りを続けたそうで、物のない時代に女盛りだった実母はお店で知り合ったお客と恋仲に落ちては妊娠したけれども、所帯を持つことも出来ず、子供を産んだとしても育てる糧もなく、田舎の祖父も気がかりで、子供を堕ろし、田舎の祖父に仕送りを続けたという。
そんな生活を続けていた実母も、30歳を超え、産婦人科の医師から「これ以上堕ろすと子供は授かれないぞ」といわれ、僕を産んだのだという。
養母の方は、兄弟が多く、「口減らし」「食い扶持減らし」として、札幌の親戚に預けられたそうで、多感な年頃、預けられた先の小父さんは気遣ってくれたものの、おばさんと合わなく、何度となく死のうとしたという。
実母、養母、共に「口減らし」「食い扶持減らし」をした親は心の底から詫びていたらしく、共にそんな親に対し、離ればなれで出来なかった親孝行を出来る限りしている姿は幼心ながら僕は見てきている。
誰を恨むことも出来ない、お金がない辛さは愛しい人と離ればなれで暮らさなければならない寂しさであると、実母、養母、それぞれの話を思い出し、思う。
飽食で、デフレの時代、お金の本当の怖さなど判らないのが当たり前だと思うけど、それなら、今ある幸福をもっと大事にして欲しい。そんなことをふと思ってしまう。
昨夜帰宅すると、日本年金機構から母宛に封書が送られてきていた。
母に確認を取り、中身を見ると、10年前に亡くなった父の厚生年金の加入記録が同封されており、記入漏れや記載ミスがないか確認を求めるものだった。
年金記録の不備が騒がれてからかなり経ち、僕自身の年金記録も昨年送られてきたのに、亡くなった人の遺族に支払われる遺族年金の確認は今頃になって送られてくるのかと驚きもし、亡き父の記録を感慨深げに母とチェックした。
家庭的に複雑で、職を転々とした父だが、事ある毎に自分の生い立ちを話聞かせてもらっていたおかげで、それなりに父の足跡はチェックでき、戦時中、まだ20歳にもならない父が厚生年金に加入していたのは新発見だったし、戦後、兵役から帰ってきた後、すぐに働き始めていたのも判った。
そんな古い記録から辿りつつ、札幌に出てきて、新聞販売店に勤め、その店を任されるようになった時、厚生年金の加入記録が途切れており、新聞販売店を経営していた時は国民年金にも加入していないとされていた。
亡くなって何年も経つ父の職歴で、年金に加入していたかどうかなど確認する手だてはないけど、この空白期間は販売店経営者だったことは確かなのだから、まずは問い合わせてみようと思う。
社会保障に元々疎い父の世代の年金確認が後回しになったような形で届けられた昨日、古い記録は残され、新しい記録は記載ミスがあるようなそんなカルチャー・ショックを感じた亡き父の記録。
田舎の叔母から電話で、海辺近くだからなのか、涼しさを求め、里に下りてきたとんぼが大量に発生し、人にぶつかるように飛び回っているらしい。
都会のヒートアイランドにいるせいか、9月になっても真夏日を記録するこの頃、とんぼのとの字も見かけない。
中島みゆきと福山雅治の「幸福論」を思い浮かべ、絶対的暑さが蔓延する今日、クーラーの効いた永田町界隈の常識はずれの蒸し暑さは、相対的幸福論しか判らないエリートちゃんたちだからなのかなとふと思う。
と中島みゆきは歌い、
「それは人類60億もの 年齢、性格、体質にそって 主観的であるべきです」
と福山雅治は歌う。
けれども、そんな絶対的な幸福論は振り返られずに、相対的幸福論が社会であるかのように語られる。
戦争や飢餓で死んでいく人はいるし、自殺をする人もいるけど、相対的に見れば、「西部戦線異状なし」
もっともっとエゴイスティックに絶対的幸福論を語った方がいいんじゃないか。相対的幸福論でお国の大将の席取りゲームに夢中になる絶対的幸福論者のように。