2006-09-06

社会からの自由 (Freedom from society)

北海道新聞の「自由からの逃走2006夏」の連載記事が終わり、読み終えて、論者達の迷いとして、「自由」と「社会」の関係があるように感じた。

もともと「社会」は「不自由」なものであり、そのため、「個人」の「自由」を如何に確保するかが、「自由」と「社会」の関係であるのに、それをいきなり「自由」な「社会」を考えるからおかしくなるのだと思う。

「自由」な「社会」などあり得ないし、「社会」の中の「自由」を考えなければ、「自由」は存在しない。

そして、もう少し視野を広げ、考えれば、「社会」も「自然社会」の一員であって、「個人」は幾重もの「社会」の中にいる訳で、「社会」と「自然社会」が一体となっている「社会」ならば、「個人」は「自由」なのだと思う。「自然社会」を無視して、成り立つ「社会」に暮らす時、「個人」の「自由」は「自然社会」に近いものが「自由」なのだろう。

要は「社会」が「自然」に背く時、「社会」に従う「自由」を確保した人々は、「自然」を忘れ、予知能力も失い、自滅を辿り、「自然」であろうと「社会」にあらがう人は「自由」なのだろう。

「腐敗した支配者から与えられた自由なんかクソクラエだ。
自由とは自分で選んだものでなければならない。」

ルイス・ブニュエル『自由の幻想』(1974年作品)より

自分で選べるとは「社会」の管理にない「自然」の中にいる選択権なのだろうから

無理矢理冬を生きてた
そんな気持ちがした
何かをひとつの色に 閉じ込めていた
めぐる生命の音が聞こえる
そいつに乗れば 素敵な事だろう

いろんな顔を見せてよ まだ見ぬ俺の
たやすく決めつけないさ 自分の事を
めぐる生命の音が聞こえる
そいつに乗れば 素敵な事だろう

岡林信康「山辺に向いて」より
(USENの音楽ダウンロードサービス『OnGen』試聴購入可能)
iTunes Music Store 山辺に向いて(iTunesインストール済みで利用可能です)

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

不自由な世界で生きる自分もいます。こうしてコメントをしようとする自分がそうなのですが。
努力をして勤め上げた会社は解雇されて、障害者の利益になるべく失業保険期間もなすすべくもなく過ぎて、やっと巡り会えた組織(障害者応援的な)不本意な理由で疎遠になりつつあり、自分で不自由な世界を選んで生きている状態です。
社会や自由を考える前に、そんな生き方しか出来ない人間も存在する事を、どうか承知して下さい。

cinema-novo さんのコメント...

北海道新聞の「自由からの逃走2006夏」が今日の「自由」の現状をシリーズにしたものでした。
特定の「自由」が「不自由」を生む時代。
例えばセキュリティ。
「管理社会」の「不自由さ」を知りつつ、「管理社会」にならざる得ない現状で、 "社会からの自由 (Freedom from society)"を考えなければ、いけない時なんだろうと思います。

今年に入り、北海道はスズメの死骸が多数見つかり、その後、うちの周りでもスズメは見られなくなりました。

人間は我慢を知っていますが、自然は我慢を知りません。人間が我慢する事が環境破壊なんじゃないかと思う事もあります。

"社会からの自由 (Freedom from society)"

市民メディアが目指すものはおそらくこれじゃないでしょうか?
「如何に人と繋がるか」それは我慢ではなく、対話から始めなきゃならないんじゃないかな。

JANJAN : 甦った映画『若者たち3部作』を見て

出来る事を模索した記録であり、手本となれば。