2008-10-31

一枚の絵 One picture


版画 : あの日の夕焼け

冬間近を思わせる休みの日なので、窓にすきま風よけのビニールシートを張り、何げに自分の部屋を見回すと、ずっと壁に貼ってある一枚の絵が目にとまった。

中学の時、鉄板の版画彫りを授業でやった時に、作った絵。札幌の豊平側沿いから街中の夕映えの風景を描いた何の事はない絵なのだけれども、僕にとっては強烈な想い出がある一枚の絵。

乳癌が体中に転移して、余命幾ばくかの母が入院する病院への見舞いの帰りの車の中から眺め見たその風景は、母との別れの風景だったと思う。

言葉が不自由でちゃんと喋れるようになりたいと東京の吃音治療に行くと母を説得し、東京へ旅立った僕は、母の最期を見取ることなく、通夜の夜、母の死に顔を見た。

叔母の話によると、転移したガンは体中に広がり、眼球と膀胱以外すべての機能を侵していたのに、意識だけは明確で、痛む身体の節々にどうする術もなく、寝ては起き、起きては寝る事を繰り返したという。

そんな母を見かねて、父が僕を呼び戻そうかと話しかけた時、母は頑なに拒み続け、治療を終え、帰ってくる息子の姿に望みを託し、生き続けた。

ガンは人を死に至らしめない。今より延命処置が未熟な時代でも母は生きる苦しみと闘い続け、見かねた医師が呼吸だけでも楽に出来るようにしてあげると、のどに器具を取りつける手術をしたところ、のどに溜まっていた膿が吹き出し、逆流して、窒息させ、母は亡くなったと聞く。

駆けつけた通夜の席で、僕は母の遺影を見て、号泣し、意識を失った。

意識あるという事、それはこの世で最大の残酷だと思う。

通夜の夜の記憶は僕にはない。母との記憶にある最期の風景は母を見舞った帰りの風景である。

意識を失う事は自然の最高の恵みなのかも知れないと思う。

2008-10-30

教訓1 Lesson One

恥ずかしながら、加川良の「教訓1」を「岡林信康コンサート」にて始めて聴きました。

「命はひとつ、人生は一回」
「わたしゃ女で結構、女の腐ったので結構」
「死んで「神様」と云われるよりも、
生きて「馬鹿だ」と云われましょうよね」

“国の認めない人間国宝”高田渡の生活浮浪者を歌う「生活の柄」とともにゲストとして歌われるこの歌もやはり素晴らしい。

後続の吉田拓郎なんかも「落陽」で「手の中のサイコロ二つ、振ればまた降り出しに戻る旅」を歌ってもしたけれども、「手の中のサイコロ二つ、振ればまた100年前」に戻りそうな昨今、「命はひとつ、人生は一回」なのだとつくづく思う。

2008-10-28

年賀状印刷 New Year's card print

札幌も急に寒くなり、初雪がいつかが話題となる季節となり、うちの職場も年賀状印刷のPRが遅ればせながら、始まった。

メールのやりとりがある人や顔を合わせることが出来る人には直接コンタクト取ろうと思っているけれども、このブログを見てくれている人でも注文してやるよという方がいればいいなと、ここでもPRしておきます。

仔細は下記のリンク先の画像にてご確認のほどを。職場宛に注文していただければ助かります。

末尾、僕の今までの年賀状の文句を集めたページもご紹介しておきますが、今年の近況報告もぼちぼち考えないと駄目かな。

2008-10-27

笑わば笑え Laugh if you laugh.

週末に届いた岡林信康のライブアルバム3枚を携帯に入れ、まずは「あんぐら音楽祭 岡林信康リサイタル」を聴いている。1969年当時の岡林さんの心境や会場の雰囲気がリアルに聞こえてくる。

岡林さんが「作らなければよかった」という「友よ」でコンサートは始まり、デビュー間もない頃の岡林さんは高石友也にかなり影響されていたのだなと、合唱を求める歌い方や選曲から思う。ただ、曲の合間に語られる語りで、岡林さんのスタンスはよく判り、それが面白くもある。その一部をご紹介。

日本の満州開拓という名の大陸侵略の時に、貧しい東北の兄弟の事を歌った「もずが枯木で」を歌う際、「反戦」というのは嘘だと思うと語り、自分の生活に引き寄せて、戦争は嫌だと云っていかなきゃ駄目だと思うと、語り、流れ歩く出稼ぎ労働者の話から田舎に残された女たちの話、部落の話と流れ進み、「山谷ブルース」を歌う際に、岡林は山谷を売り物にして喰っているという批判をする人がいる。その人は山谷を知らない人だと岡林さんは言い切る。

働けど、働けど、楽にならなく、奥さんにも家を出て行かれた父親と暮らす知的障害の子供の詩に曲をつけた「チューリップのアップリケ」を歌い、貧しさは貧しい人が頑張らないから駄目だと思っていたけれど、貧しい人を作り出す社会がおかしいと思うようになったし、子供にこんな思いをさせちゃ駄目だと、ボブ・ディランの歌「戦争の親玉」の訳詞を歌う。

「笑わば笑え」笑うタイミングが判らなく、笑う客たちにぼそっとつぶやく岡林さんのピュアさが心打たれる。

2008-10-26

怒りをうたえ Sing anger

職場の代表より70年安保闘争の記録映画「怒りをうたえ」のビデオを貸して頂き、全3本、8時間強あるものの半ばを見終えたところ。

「インターナショナル」や「沖縄を返せ」などが歌われ、スクラム組む若者たちは激しい国家弾圧と内ゲバの末、ベトナム戦争終結とともにその闘いは敗北に終わる。

その後の安保闘争の内実に対する批判論を少しは知る身にとってはその抗議行動の嘘くささが鼻につきもする。

スローガンとして歌われた「沖縄を返せ」はこの映画が再上映された90年代に沖縄の大工哲弘さんがレコーディングし、沖縄からの「沖縄を返せ」を歌っているし、繰り返し歌われる団結の歌「友よ」は岡林信康さんの虐げられた者への歌が組合として歌われ、虐げられた者は葬り去られもした。

自民党と密約を交わしていたとされる浅沼委員長の60年安保時の死に対し、その意志を受け継ぐなどという指導側の演説の場面など観ると胸くそ悪くなってくる。

指導側と運動に関わった学生たちのギャップが今観ると痛ましいし、同じカメラマンが関わった劇映画で、後にテレビドラマ「ひとつ屋根の下」の原型となった「若者たち」のテーマである「人とどう繋がればいいのか」は今でも生き続けるテーマだろう。

同じ頃に作られた藤田敏八の「にっぽん零年」なんていうドキュメントは運動に関わった学生たちの生の声を追いかけたものだった。

岡林信康の安保当時の左翼内部の野次り合いが渦巻くライブアルバム群も今月、始めてCDで復刻され、当時の若者たちが大人たちとどうぶつかり、どう利用されていったかを知るには、いい資料が出そろったのかも知れない。

高度成長による公害、アメリカのドルショック、石油高騰などがあり、今に至る国レベルの福祉施策が確立した70年代初頭を、今の日本の「グランド・ゼロ」とする向きもあるこの時代を知る事は、経営合理化によるリストラが当たり前になる今、「俺はお前の味方だぜ」とうそぶき、生き残りをかける「渡る世間」を知る事なのかも知れない。

2008-10-24

僕はひとりで旅をしたよ I traveled alone.

「イン・トゥ・ザ・ワイルド」を観てきた。

前評判に期待していた分、肩すかしを食らった感じがいがめない。

描かれた人物が実在の人物で、ひとり旅して、アラスカで亡くなった時に、自然に対する無知ぶりがバッシングされたというけれど、映画は主人公が自然の恐怖を味わう場面をさらりと描くのみで、主人公がHappyな場面を追い続ける。

無批判に描き続け、延々と語られる妹の独白をよそに、違法行為も冒険話のように描かれ、死ぬ間際、遺言にて、「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時」と語られる時には主人公のHappyぶりが愚かに思えてくる。

ひとり旅の中での孤独との闘いを描いた堀江謙一の劇映画「太平洋ひとりぼっち」のような描写もなく、旅の途中であった人たちとのエピソードを連ねただけのこの映画は、バッシングされた主役のモデル同様、自然に対して無知でしかないような気がする。

様々な場面で自然の報復が現実味帯びる今日、食べられない毒性ある草を食べ、物質文明の飽食エリートたちもこの主人公のように死ぬのかも知れない。

その時、エリートたちはこう云うだろう。「僕はひとりで旅をしたよ」と。

2008-10-23

智恵子抄 Chieko sho

なんとなく、高村光太郎の「智恵子抄」の一節である「智恵子は東京に空が無いといふ」の意味が判ってきたような気がする。

若年性アルツハイマーになっても受け入れる施設もないという日本には互いが向き合える社会がない。

転んだ者は自分で立ち上がらなければ、転んだままの社会。それは「空がない」という事なのだろう。

こんな話を聴いた。

父親が高齢となり、子供たちは自分の家庭を守るのが精一杯で、施設に預けた時、父親の財産管理をどうするか、話し合われ、父は準禁治産者にされ、財産管理は子供らに託された。

親の名誉より財産の管理を重んじる世論が介護保険を生んだとも聞く。

この国には空がない。そう思う。

智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切つても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。

2008-10-22

当事者 Person concerned

福祉の議論をすると必ず出てくる「当事者からの声」が大事というテーゼ。当事者って誰なのだろうか?

今、当事者である人とこれから病気や怪我、または老いて、当事者になる人と、当事者意識が必要なのはどちらなのだろうか?なんか昔のセクト主義的な感じがして、「当事者からの声」と聞くと虫ずが走る。

小児ガンで今を生きるしかない子供たちを撮影続ける『風のかたち』を見たいと思うのも、「当事者からの声」を聞きたい自分がいるからだろう。

当事者がどのように生きているかの語り部がいなく、「当事者からの声」をネタに当事者不在の福祉を展開したから、社会保障、医療制度、雇用問題などセーフネットががたがたになったんじゃないだろうか?

「当事者からの声」を聴き、伝える当事者がいないのが今の社会のような気がする。

2008-10-20

複勝を買おう Let's buy a double winning horse.

金融危機の昨今、中央競馬の秋のグレードレースも始まり、秋華賞では1着から3着までの順位を当てる三連単馬券が1098万2千20円の夢の1000万馬券となった。

三連単馬券の組み合わせ数で、三頭の馬に絞り込んで買うならば、その順位を入れ替える種類は6通りになるけれど、今回入賞した馬の人気順は1着のブラックエンブレムが11番人気、 2着のムードインディゴが8番人気、3着のプロヴィナージュに至っては出頭数18頭の16番人気と予想困難であるから、1000万馬券になり得たわけで、当然、私めも当たりませんでした。

競馬の勝ち馬に対する当たり馬券は、その種類も多数あり、大金狙いならば1着から3着まで着順通りに当てる三連単や1着から3着までに入賞した馬を当てる三連複があるけれども、オーソドックスな1着、2着を当てる馬単、馬連や1着から3着までに入りそうな馬二頭を選ぶワイド馬券もあるし、お目当ての馬一頭が1着に来たら当たりの単勝や1着から3着までに入賞したら当たりの複勝などもあり、危険度を選べる仕組みにもなっている。

今回の秋華賞の結果を見ていくと、それぞれ美味しい配当金が示されているけれども、着目したいのは、複勝式。1着のブラックエンブレムが11番人気で、930円、 2着のムードインディゴが8番人気で610円、3着のプロヴィナージュが16番人気で、6,210円。とても複数選択では買えそうにない馬は、複勝式で押さえておくのが美味しいような気もしてくる。

実力揃いの馬たちが競い合うグレードレースで、少額賭けて、ちょっとした冒険を楽しむのも面白いかも知れない。多額を賭けて、「嵐の中、雨戸を開く」恐慌に巻き込まれる愚かさにならぬ程度に。

金と酒は溺れぬほどにたしなむのが粋なのだから。

2008-10-19

携帯小説 Portable novel

若い頃に書いた文章をパソコンを始めた頃に、PCサイトとしてアップしたのだけれど、その中で、シナリオ作品を携帯小説の形で、少しずつ公開し始めている。

こないだちょっとHな作品「薄野」を公開したところ、アクセスが思いの外、多い。

やはりネットはそちら系が受けるのかな?(笑)

2008-10-16

アホって何? What is the fool?

銭湯のジェットバスで、両脇にある手すりにぶら下がり、ジェットバスの勢いに巻き込まれ、パニックになり、泣きじゃくる子供がいた。

そのお父さんが、子供を助け出し、一言。「アホ」というとその子は「アホって何?」と聞き返す。

先まで泣いていた子供の切り返しに、お父さんは絶句。

知ったかぶりより知りたがり屋の「アホ」ほど賢いものはないのだよね。

中島みゆきさんの歌にも「ずるくなって、腐りきるより、アホのままで昇天したかった」(「熱病」)というのがあるくらいだし。(笑)

2008-10-15

僕らはみんな生きている We are all alive.

「今時、ツルハシ一日持ったって、8,000円が相場だぜ。」

賃金のクレームの電話なのか、携帯電話に粋がる経営者らしき親父さんは、電話をし終えた時、こちらと目が合い、「仕方ないじゃないか」とでも云うような目つきで、歩き去る。

その後ろ姿は、糖尿をこじらせたのか、足を引きずっていた。

「僕らはみんな生きている。生きているから・・・」

2008-10-14

月 The Moon

このところ、露天風呂で夜空を眺めるのが趣味となっている。

よく行く銭湯は露天で満天の空が見渡せるので、明るくなりすぎ、自然がどんどん見えなくなる札幌の空を仰ぎ見て、目を凝らして、遠くで瞬く星の数を数えたりする。

この頃、行くようになった温泉付き銭湯では露天が高い壁と壁の狭間にあって、空も一部しか見えないけれど、銭湯の屋根から薄明かり差すお月さまが次第にその姿をさらけ出すエロスの時間を楽しんだりもしている。

1400km/hの地球の自回転がなす天体ショウは黙って見ていると、月の動きの早さが感じられ、すなわち、この大地が動いている様が実感出来る。

桑田佳祐の「月」を知ったのは「ふぞろいの林檎たち」。

余命幾ばくかのガン患者に添い寝する看護婦役の手塚理美のバックに流れていた。

君と寝ました 他人のままで 惚れていました 嗚呼

今宵、月と戯れる。

2008-10-13

障害者の権利に関する条約 The Plenary of the General Assembly adopted the Convention on the Rights of Persons with Disabilities

職場で読んでおきなさいと提供された大谷強さん(関西学院大学教授)の「障害者の権利と政策」サイト資料を読んでいると、「権利主体としての障害者市民」にて、 2006年12月13日にニューヨークで採択され、2007年9月28日にニューヨークで日本も署名した「障害者の権利に関する条約(外務省訳)」が「国際条約の基本の理念を見事に骨抜きにしている」と指摘されている。

条約の仮訳文章は日本障害フォーラム(JDF)でも「障害のある人の権利に関する条約(川島聡=長瀬修 仮訳)」として掲載されており、何が「国際条約の基本の理念を見事に骨抜きにしている」のか読み比べてみたくなった。

障害者を別枠として施策を組んできた日本社会のおかしさがもしかしたら、読めるのかも知れない。

高度成長期に「エコノミックアニマル」と海外から称され、通勤電車を「奴隷船」と揶揄された日本のシステムはそのおかしさに判らぬまま、今を迎えたという。

「奴隷船」とは障害持つ者は海に放り棄て、健康な者は身動き出来ないまでこき使う黒人奴隷を新大陸に運ぶ船の事であるらしい。

知的障害の子供の詩から作られたという「チューリップのアップリケ」などを歌った岡林信康の歌から当時の世相をなぞっていけば、「金で買われた奴隷」(「くそくらえ節」)は「何人子供を作るのかをきめるのは給料で二人じゃない」(「性と文化の革命」)社会で、一緒になって、「おもちゃのように この星をいじく」(「毛のないエテ公」)り、今に至ったようである。

障害者の権利に関する条約の原文もあるようなので、語学に自信があれば、訳文と比較もしてみたいけれども。。。

2008-10-10

連休 Consecutive holidays

明日一日仕事が入るけれど、今日から月曜まで念願の連休。

まとまった休みがずっと取れずにいたので、しなきゃならない事も多いのだけれど、家にいるのはもったいない気分が先に立つ。

縛られるのが嫌いな自由奔放の射手座性格はやっぱりしなきゃならない事は苦痛でもあり、ましてや小春日和の外が手招きしているようで、外に出たくなる。

仕事後の銭湯湯治でほぐれかけた身体が体調良好を示しているのかも知れないけれど、せっかくの連休を満喫したい。

しなきゃならない事に追われる後日は忘れて、「今を生きる」でいきましょう。

あぁ、なんて刹那的。(笑)

2008-10-07

大事な事は伝わらない An important thing is not transmitted.

身の回りのごたごたを振り返ったりすると、大事な事は伝わらないのだなとつくづく思う。

体裁作りにみんな夢中になり、事の成り立ちを見えなくする。

組織が小さければ、担う仕事の役割分担をちゃんと決めなければ、問題が露呈するけど、組織が大きくなれば、役割分担がエリア意識となって、問題を拡大させる。

役割分担の機能を理解していて、大事な事は伝わらないという認識があれば、それなりに対処出来るのに、自分のエリアから出ようとしないから、問題はこじれていく。

自分も従事員なのに、他のポストを批判はするけど、経営サイドに立とうともしないのは、都合のよい「愛国心」によく似ている。

世界の映画の巨匠たちが映画の原点に戻ろうと世界初の映画撮影用カメラ“シネマトグラフ”を使って製作されたオムニバス『リュミエールと仲間たち』にて、吉田喜重監督は「原爆の爆心地をリアルタイムには映し出せない」とマスメディアのおごりを啓発し、ヒュー・ハドソン監督は「今の広島」に原爆投下を報じるアメリカのラジオを被せて見せた。

大事な事を知るには一歩引いた価値観が必要であり、自分に埋没する事こそ、伝わらなくさせているのだろう。

ちょうど、人間にとって金銭感覚ほど難しいものはないのに、資本主義が揺るぎない社会であるように。

徒党組むのが勢力争いの元なのに、多数決が正しく、政党政治が正しいかのように。

2008-10-05

自閉症の男の子 Boy of autism

昨晩、いつも行く銭湯に自閉症の男の子がサポーターの方と来ていた。

何度か見かけた事のあるその男の子は檜風呂と岩風呂がある露天で自由奔放に動き回り、湯おけで水遊びをしていた。

付き添われているサポーターの方は先日はおそらく障がい児の介護で汗だくになるのか、全身汗もだらけの人ではなく、別の方だったけれども、その子の動きを目で追いながら、一緒に入浴されていた。

その子が飛びこんだり、水跳ねをして、他のお客さんに水をかけそうになると大きな声で叱りつけるけど、それ以外は何も言わない。

混み合っている湯船で、他のお客さんの間を縫うように動き回るその子はまるで「これが僕だよ」と云わんばかりに動き回っていた。

モラルが幅を利かせ、要領ばかりを覚えてしまい、人の顔色をうかがう萎縮した世の中、「これが僕だよ」と動き回るその子の奔放さとその奔放さが逸脱しないように見守るサポーターの方に人と人の距離感を今さらながら、教わった気がする。

その子が僕のそばに来て、目が合い、見つめ合った時、少し気恥ずかしい想いを僕が持ったのは、きっとその子の奔放さへの憧憬だったのだろう。

2008-10-03

思君 thinks of you.

テレサ・テンの『淡淡幽情』のラスト・ソングは離ればなれに暮らさねばならない者の恋歌。

今で云う単身赴任者の詞であるけれども、テレサのこの詞への想いは中国への返還間近であった香港社会の気持ちを代弁したものだろう。

数年後、天安門事件が起き、その抗議集会にも積極的に参加したテレサは抗日運動の歌として歌われた「何日君再来」をトウ・ショウヘイ(鄧小平)政権に宛てて、歌いもした。

極東という限られた世界から国際社会へ羽ばたこうと、パリに居住を移した彼女の心境はいつも「思君」であったという。

厳格な規律ある唐詩を大衆向けに崩していった宋詞を中心に作られた『淡淡幽情』の続編を作る願いも叶わずに、テレサ・テンは1995年5月8日、タイ・チェンマイで気管支喘息による発作のため死去する。

中国の古典詞に魅了された彼女は「星願」という詞を遺稿として残している。
「往事不堪思, 世事難預料(過去を思うと堪えがたく、この世の事を予感するのは難しい)」

我住長江頭,君住長江尾。
日日思君不見君 ,共飲長江水。

此水幾時休?此恨何時已?
只願君心似我心,定不負、相思意。

私は長江の河上に住み、
君は長江の河下に住む。
毎日、君を思い浮かべてみても、君に逢う事は出来ない。
共に、長江の水を飲んでいるというのに。

この水はいつの時にか休すむのか?
この辛さはいつの時にか終わるのか?
ただ、願うのは君の心が私の心と同じく、
背くことなく、慕いあい続けて欲しい。