2006-12-31

2006 list column

社会

健康・障害

情報

2006 list music column

日本

ブラジル&アフリカ

2006 list cinema column

邦画

洋画

Public Domain Movie Torrents

2006-12-29

雨にもまけず not losing to the rain


amazon.co.jp :
雨にもまけず not losing to the rain

poem written by Kenji Miyazawa

not losing to the rain
not losing to the wind
not losing to the snow or to summer's heat
with a strong body
without want
never angering
always smiling quietly
every day four bowls of brown rice
miso and some vegetables to eat
to everything
without judging
carefully watching and listening and understanding
then not forgetting
in the shade of the woods of the pines of the fields
being in a little thatched hut
if there is a sick child in the east
going and watching over them
if there is a tired mother in the west
going and shouldering her sheaf of rice
if there is someone near death in the south
going and saying there's no need to be afraid
if there is a quarrel or a suit in the north
telling them to leave off with such nonsense
when there's drought letting tears fall
when the summer's cold wandering upset
called a blockhead by everyone
without being praised
without being blamed
such a person
i want to become


宮沢 賢治 作

雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決していからず
いつもしずかにわらっている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜をたべ
あらゆることを
じぶんをかんじょうに入れずに
よくみききし わかり
そして わすれず
野原の松の林の蔭の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気のこどもあれば
行って看病してやり
西につかれた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って こわがらなくてもいいといい
北にけんかや そしょうがあれば
つまらないから やめろといい
ひでりのときは なみだをながし
さむさのなつは おろおろ あるき
みんなに でくのぼうとよばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい

2006-12-20

人間万事が塞翁が馬 Let's it be

青島幸男さん、岸田今日子さんと相次ぐ訃報。
あの世がだんだん素敵なところになっていく。

「一度しかない人生、無責任に生きましょう」がモットーのようなお二方のご冥福を祈ります

人間万事が塞翁が馬の故事

中国で、すばらしい馬を持つ塞お爺さんという人がいました。
ところがその馬が逃げてしまいました。
その時、村人が「残念だねえ」と話すとお爺さんは「それほどでもない」と答えました。

そうしていると、その馬が美しい雌馬をつれて戻ってきました。
その時、村人は「良かったねえ」というと、お爺さんは「それほどでもない」と答えました。

そうしていると、その馬に乗って遊んでいたお爺さんの息子が馬から落ちて骨を折ってしまいました。
その時村人が「残念だねえ」と話すとお爺さんは「それほどでもない」と答えました。

そうしていると村で戦争が始まりました。
村にいる若者は戦争にかり出されましたがお爺さんの息子は骨折していたので戦争に行くことなく命が助かりましたとさ。

なるようになるのが人間。モラルで縛ったって、天変地異でご破算。穏やかなれと思うなら、競争社会、止めなはれ。地球がオーバーヒートするだけや。

人間万事が塞翁が馬

2006-12-18

クリント・イーストウッドからの映画 cinema from Clint Eastwood


amazon.co.jp :
散るぞ悲しき

クリント・イーストウッドからの映画『硫黄島からの手紙』

クリント・イーストウッドが「世界が忘れてはいけない島がある」として、作った硫黄島二作。その日本から見た硫黄島『硫黄島からの手紙』を見終えた。

イーストウッドは出来れば亡き黒澤明にこの映画を撮らせたかったと語っており、劇中でも、黒澤映画のオマージュか、戦乱の宿場町を思わせる硫黄島の部落が描かれもしていた。

制作途中でも日本側に監督も任せたく、人選にあたったようでもあるが、結局、ご自身でこの映画を作られた。

作られている間も日本側のスタッフ・キャストと入念なミーティングを重ね、イーストウッドの思い描く日本人観はより現代的な日本人像が造られたようである。

現代の遺骨発掘から始まる映画は61年前の硫黄島にタイムスリップする。

二宮和也が演ずる西郷の語りで、硫黄島の日本軍の絶望的死闘は始まるが、この西郷の文句を言いつつも従ってしまい、上官に逆らえないキャラクターは今まで日本映画で描かれなかった兵士であり、今の日本人が「あの時代」に行ったような感覚を覚えてしまった。

映画の感想をネットで読んでいくと、中村獅童が演ずる伊藤のような盲目的な愛国者に対する批判が聞かれ、「あんな士官はいるはずがない」と、語られていたが、日本のかつての戦争映画などはどちらかというと、洗脳され、盲目的な愛国者になった伊藤のような男たちの悲劇を取り上げていたのだが。

盲目的な愛国者の死を尊べと云うのと、その死を忘れるなという見解の違いが戦後の「あの戦争」をどう捉えるかの争点だったけれども、今の日本は逆らえない人間をキャラクターに据える事で「あの島」を語ろうとしたのだろう。

そして、戦後日本にあった厭戦観をイーストウッドは理解していないのか、テーマは『父親たちの星条旗』と同じく「生と死」に重きを置かれているように思う。

英雄という立場で国家に利用される『父親たちの星条旗』、支援なき攻防に追い込まれる『硫黄島からの手紙』。

明らかにイーストウッドは泥沼化するイラクを視野に入れているだろうけど、それを支持する盲目的な愛国者たちに戦場の死の舞を見せつけたかったのだろう。

映画では自然の過酷さは描かれなかったけれども、硫黄臭のする硫黄島での洞窟堀りは想像絶する任務であったことだろう。

その硫黄島も今、この3か月で約20cm隆起していると、国土地理院から発表があったという。

自然は壊れても自然のまま、そこで人が暮らせるかどうかの問題なのに、温暖の暮らせる環境が当たり前と思われ、経済優先の競争を激化する人間たちは、平和維持の大義の下、地球を空爆する。

来年、もしかすると硫黄島は「世界が忘れられない島」になるのかも知れない。

関連ページ:

日本文化の貧弱さ Poverty of Japanese culture

映画『ありがとう』|映画『暗いところで待ち合わせ』

日本文化の貧弱さ 映画作りの苦心の跡から

自分の国の文化に投資をし、企業イメージなり、資産家としての誇りを高める事が海外ではスティタスであるのに、日本では何故か、文化に対する投資はあまり行われず、作家達が苦心惨憺し、金策に走り、文化作品を作り上げるのが通例になってしまっている。

音楽だと、島倉千代子、美空ひばりなどの日本を代表するような歌手のディスコグラフィもレコード会社には存在せず、コレクター達が必死になって調べ上げたものが、昨今の資料重視の中、全集ものに添付されたという話を聴くし、戦前の邦画が戦災でほとんど消滅したのは本来大問題なのだが、致し方ないとするとしても、戦後作品のフィルム保存状態のひどさは、映画に対する文化意識の欠如であるとしか云いようがない。

売るためだけの文化品も、海外で、例えば坂本九の『上を向いて歩こう』がアメリカでミリオンセラーを記録したり、黒澤明溝口健二小津安二郎などの作品が国際賞に輝いても、日本人は今のようなグローバリズムを理解できずに、ひたすら消耗品としての映画や音楽を作らせ続けた。

黒澤明の自殺未遂以降の映画作品は海外資本だし、日本資本に見切りつけた大島渚今村昌平も国際的評価で作家生活を成り立たせていた。

近年、日本映画に対する海外の評価が高まってはいるけれど、相も変わらず、日本資本の文化センスのなさは情けなくなるばかりと感じるのだけど、如何だろうか。

カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと男優賞を受賞した映画『誰も知らない』の制作苦労話なんてよく知られた事だろうけど、自分の社会に対して厳しい視点で描かれるものに対し、どうも日本資本は金を出し渋る傾向も見られる。

今年に入り、いろいろ映画を観る中、クロス・カルチャー的な映画が増えてきたように感じられるけど、日本資本で作られた映画のセットの貧弱さは観ていて痛々しい。

阪神淡路大震災を再現した映画『ありがとう』も震災再現の前半は特筆すべく、ニュースフィルムとCGに負けないくらいのセット撮影がなされていたが、後半のプロゴルファーになるあたりのセットはテレビスタジオかと思うほどだった。

乙一原作の映画『暗いところで待ち合わせ』なども物語的にはかなり危うく、映像化すると現実離れを感じさせそうな話を、丹念な心のディテールを描きあげていたが、メインとなる主役ミチルの家の居間はもろにセットと判るもので、資金不足で苦労された痕跡がこちらにも伝わってきてしまう。

かつて、まだ国全体が貧しかった頃、1000万円映画として、資金不足を工夫し、文化を守り抜いた日本映画と何も変わらない映画界の現実を、最新作の映画群は我々に示してくれる。

日本を舞台にした外国映画が凝ったセットを提示するのと比べ、未だに貧しいセット撮影を余儀なくされる日本映画界で聴かれるのは、ソフト化での利益を売りに出す映画ファンド。

嫌韓流でもなんでもいいけれど、もっと自分の国の文化を自慢できる社会であって欲しいもの。

海外では自分の国の文化の話からコミニケーションが始まるけれど、日本の映画や音楽の話を海外の方からされて、どれほどの人がそれに受け答えできるのだろうか。

関連ページ:

  • OhmyNews : 日本文化の貧弱さ 映画作りの苦心の跡から

2006-12-13

オーマイニュース OhmyNews

オーマイニュースの市民記者に登録し、記事投稿をしてみました。

自分の書く物とオーマイニュースの接点を探るために、とりあえずはエッセイ風なものを二篇。現代人の心の貧しさを感じて頂ければと思います。

2006-12-12

失われた時を求めて Remembrance of Things Lost

「自律的呼吸を奪われている。自分で呼吸出来ない状態、いや呼吸という概念すら失ってしまっているのが現代」として「歴史が沈黙している」と語り続けたテオ・アンゲロプロスの作品4本が下高井戸シネマで連続上映されるよう。

グローバルと云いつつ、大帝国作りに余念のない資本家たち。日本だって、グローバルに耐えられる企業作りばかり語られ、グローバルを受け入れられる市場を作ろうとはしない。

無呼吸状態の格差の行く先をアンゲロプロスは語っています。

JANJAN : 失われた時を求めて アンゲロプロス作品一挙上映に際して

フィルモグラフィ

[1960s][1970s][1980s][1990s][2000s]

1960年代

  • 1965年 フォルミンクス物語(未完) Forminx Story
  • 1968年 放送(短編) Broadcast / I Ekpombi
  • このページの先頭へ戻る

1970年代

  • このページの先頭へ戻る

1980年代

  • このページの先頭へ戻る

1990年代

  • このページの先頭へ戻る

2000年代

  • このページの先頭へ戻る

DVD

  • このページの先頭へ戻る

amazon

Theo Angelopoulos

amazon.com Discography

[1960s][1970s][1980s][1990s][2000s]

1960s

  • 1965. Forminx Story
  • 1968. Broadcast / I Ekpombi
  • このページの先頭へ戻る

1970s

  • このページの先頭へ戻る

1980s

  • このページの先頭へ戻る

1990s

  • このページの先頭へ戻る

2000s

  • このページの先頭へ戻る

amazon