2009-08-30

能力と能率 Ability and efficiency

先週の共同連名古屋大会の事を思い返し、咀嚼していて、まず一番感心したのは「互いに助け合う」という理念だったような気がする。

「互いに助け合う」と言葉にするのは簡単だけど、どう助け合うかは「互い」を知らないと「助け合う」にはならないのだろう。そして、「助けて貰った」という自覚がなければ、「助け合う」にはならない。つまりは「互い」が問題なのじゃないかと思う。

それは能力と能率の違いだろうし、個々人の能力を理解しなければ、能率ある仕事は生まれてこないというビジネスモデルなのじゃないだろうか?

愛知県のわっぱの会が展開する事業所の紹介で、障害スタッフと健常スタッフの人数がそれぞれ示されており、この業種は障害スタッフが、別な業種は健常スタッフが多く配置されており、それが意図的なのか、人員不足なのか気に掛かった。それは一緒に紹介されていた滋賀県の「がんばカンパニー」、「ねっこ共働作業所」にも云える事で、意図的に人数配分をしているのであれば、なかなか面白いビジネスモデルのようにも思えてくる。

こんな事を何故思うのかというと週末に勤めている仕事で、それこそ30年前、入ったばかりの頃、僕の障害程度で出来る仕事は何かを検討してくれた記憶があり、あれがいわゆる「適材適所」の考え方なんだろうなぁと思うわけで、この頃の風潮となっている誰もが何でもこなさねばならないという能率的には悪すぎ、能力を無視した仕事のあり方に対する疑問にもなっている。

能力と能率は様々な仕事と無数の人がいるほどに効率を上げられ、日本の三大都市圏のひとつ、名古屋ではおそらくその辺が十二分に考えられているのじゃないだろうか。

じゃ、人も仕事も少ない200万都市札幌は何が出来るのか、人も仕事も少ないから、公共事業が肥大化して、何でも公共事業にしてしまい、民間の力がそぎ落とされているような気がしてならない。

札幌ではまず見られないけど、東京、名古屋ではよく見かける地下鉄駅と近隣ビルの連結により、エレベーターなどのバリアフリーの確保なんかは、土地勘がないと混乱するけれども、互いの能力と能率を活かし合う街づくりであると思うのだけど。

大阪、橋下知事じゃないけれど、民間の知恵で「ない袖を振る」発想とは人と仕事を知るに尽きるのだろう。

札幌地下街が地元企業撤退で、大手資本のコマーシャル媒体としての出店ばかりになってしまった事なんて、札幌なのに札幌を売り出せないその典型例だろうし。

中部国際空港 セントレアも地元の土産もの出店より、東京バナナの店が目についたりしたけれども。

2009-08-29

歯石 Tartar

利き手不自由で歯磨きが下手なのか、どうも歯石が溜まりやすく、通っている歯医者さんで、虫歯治療が終わっても歯石を取るために定期的に通った方がいいと云われてしまった。

歯茎全体が腫れぼったくなり、歯を磨き度に出血するのは毎回で、出血したら、歯茎のマッサージとして、ブラッシングをするよう心がけているのだけれど。

歯石を放っておくと、歯のエナメルを溶かして、痩せさせ、歯をなくす事になるらしく、今の状態は歯肉炎になっているとか。

元々、歯は丈夫な方ではなく、差し歯、詰め歯、入れ歯など口の中全体なんらかのトラブルがある。今入れているブリッジ型の入れ歯が大きくならないようにと歯科衛生士さんから云われ、ただ頷くしかない。

仕事のお休み日だったので、映画にでもと思いきや、時間が合わず、何となく街をぶらつき、一緒に名古屋に行き、同泊したおじさんの財布の中に「ロト6」が納められているのを思い出し、何となく久しぶりに「ロト6」、「ミニロト」を買ってみる。

他力本願に限界はあるのは知っているけれども。

明日天気になぁーれ

2009-08-27

不正の本質 Essence of injustice

NPO法人札幌ライフの機関誌「アドボケイト」最新号に掲載のもの。


この頃、郵便不正利用の問題がマスコミで騒がれています。

心身障害者用低料第三種郵便は情報の確保

不正利用されたのは心身障害者用低料第三種郵便という制度であり、この制度は1960年代に、何の生活保障もなかった重い障がいを持つ人たちが国や自治体に働きかけて、出来た制度と聞きます。

全国の障がいを持つ仲間たちがどのような生活をしているのか、情報を共有したいとの願いから、障害者団体の発行するニュースなど、数少ない障がいを持つ者たちの悩みを知る情報源の入手手段を確保することは生きる上、欠かせない物だったと聞きもします。

今のようなテレビ、ラジオ、新聞、ネットなど情報があふれかえる時代では想像しにくいかも知れないけれども、「情報の確保」の大切さは、障害者差別撤廃に関わる一連の人権条例でも大きな比重を占め、ネットなどでは、聴覚、視覚、肢体などの障がいを持つ人たちが利用できるページ作りの指針も示されていますし、「車いすが障がいなのではなく、段差が情報を得る上での障がい」と社会的障がいの問題からバリアフリーの理念も生まれたといわれます。

再発防止の対処策より不正の本質を

ダイレクトメールの郵便不正利用に端を発し、郵便事業会社の不祥事、厚生労働省の担当者が不正に関与していたなど、政官癒着にまで及んだ事件の展開は、あきれ果てるとしかいいようがないですが、不正の本質をあばく考察にならずに、再発防止の対処策に流れてしまうマスコミを始めとする世論の流れが一番の問題であるように思えます。

叩かれないために、再発防止の対処策として郵便事業会社は過剰にも思える窓口対応を行い、煩雑化するだけで、紙資源の無駄遣いにもなる書類主義に、正規の手続きを取ってきた障害者団体が振り回されるというおかしな事の成り行きにもなっており、じゃ、心身障害者用低料第三種郵便をなくしてしまえという暴論も飛び出しているとも聞きます。

日本障害者協議会や全国障害者定期刊行物協会連合会、日本障害フォーラム(JDF)が総務大臣、厚生労働大臣、郵便事業株式会社代表取締役会長に宛て、意見書、要望書を出されたものをネットで読むことも出来ます。

昨今、障害者施策を取り巻く環境への危惧

昨今、障害者施策を取り巻く環境として、例えば北海道における聴覚障害偽装、障害者加算の不正受給などもやはり不正の本質ではなく、再発防止の対処策に流れていっている感じがあり、うちの事業所で働く障害者スタッフの毎年行われている自立支援助成の申請書に「障がい程度の確認」として医師の診断を求める書類が添えられていると、どう見たって、重度障がいである者を再認定に持って行こうとしているのじゃないかと、警戒したくもなってくる。

「障がい」は完治しないと判断されるから「障がい」であり、人間は加齢により、「障がい」も重くなるという常識を、一部の不正を切っ掛けに社会保障の削減策に持って行こうとするようなそんなゲスな社会意識が生まれようとしているような気がしてならない。

2009-08-26

やればできるさ Si può fare

国内ではイタリア映画祭2009で上映されただけの、共同連名古屋大会で特別上映されたイタリア映画「やればできるさ」。

映画の社会背景を調べると、毎日新聞の2009年2月5日東京朝刊に詳しく書かれていたようだ。

イタリアは患者への拘束や暴行が横行していた精神医療を批判し、「狂気とは人間の1つの状態であり、まず社会が受け入れるべきだ」と精神病院の全廃を唱えた精神科医フランコ・バザリアらの提唱で、1978年に法施行され、犯罪者が入所する司法精神病院以外の一般の単科精神病院が次々と閉鎖され、遅れていた南部も含め、1998年末に全廃されたという。

モデルになったベネチアから列車で北東に1時間。ポルデノーネの共同作業所はその法が施行された3年後の1981年、精神科の知識など何もない中年男が施設に関わる事から始まり、「彼らに仕事などは無理だ」と医師や行政当局に相手にされなかった事業は今、「コープ・ノンチェロ」という名の大きな協同組合になっているという。

中年男にひとりひとり「さん」付けで名前を呼ばれ、感激する患者たちに「働けば金がもうかるぞ。君は何が得意だ。何ができる」と呼びかけると、それぞれおずおずと「僕にできるかな?」と応ずる患者たちの言葉がこの映画のタイトルとなっている。

押さえつけられた薬物治療の薬の量を減らしていく事で、寝てばかりいる生活から脱却し、自分たちで決めて仕事をする組合形式の元、能力を問わず、賃金を分け合う生活が始まる中、性欲や恋愛などナイーブな問題も浮き上がってくる。

障害は本人の身の上にあるのではなく、社会の通念や偏見がまずは障害なのであると、語られる社会モデルの解決の実践例を描いた映画であり、イタリアらしいコミカルな物語展開の中、疎外している社会の問題がネオ・リアズムのイタリア映画らしく描かれる。

「はっきりと線引きできる違いはない」とされる精神障害者の社会参加を疎外しているものは、「こうあるべきだ」を頑なに信じる社会通念であり、それが競争社会を加速させている。

人間は機械の部品じゃなく、機械の部品にするから精神的に参ってしまう。

カッコーの巣の上で」から語られ始めた精神病者の人権は精神病院を組合に変えるという実験から精神病院の全廃へと流れている。

「日本は100年遅れてるんじゃないの」とも云われる社会環境のギャップは、増え続ける日本の精神疾患に象徴されているのかも知れない。

2009-08-25

選挙に対する思い Desire to election

休みを利用して、期日前投票に行ってきたけど、来ている投票者から投票当日より人が多いという声も聴かれた。

そういう意識を調査していないのか、投票受付の人手は少なく、投票会場入り口は行列が出来る時もしばしば。

見た感じ、高齢に有権者が多かったけど、日本は選挙のネット活用がまだまだ検討されていない国だから、期日前投票の整備はちゃんとすべきなんじゃないだろうか。

それと共同連全国大会で聴いたイタリア、韓国、フィリピンでは発言弱者の人権法案が次々と可決されているらしいけど、日本は種々の人権法案推進の動きが見えなく、景気浮揚ばかりが選挙のメインとして取り上げられている。

先日、職場に新聞記者が訪れ、障害者から見た今回の選挙がスタートしたことに対する思いを原稿にしてくれないかというので、ちょっと書いたものを転載しておきます。

共同連全国大会でも、生存権と人権を別枠で考える向きが感じられたけど、どうして、日本人は縦割り思考が強いんだろう?

そこが判らない。

今回の選挙の告示による国会の解散により、障害者自立支援法の改正案が廃案となる一方、臓器移植法改正は十分な審議がされないまま可決されるなど、福祉にまつわる環境への配慮があやふやにされた印象を受けました。

障害者手帳の偽装や心身障害者用低料第三種郵便の不正利用など次々に起きる社会的事件からも、障害者の暮らしに関わるいろいろなサービスが受けられにくくなっているという状況があちらこちらから聞かれるようになっています。

それはとりもなおさず、社会的弱者とされる障害者や高齢者、子供たちの人権法案が明文化されていない事に問題があるのだろうし、日本が初めて国際規格として提案した「ガイド71」に記された「人の能力」への配慮がなされないままであることが問題のような気がします。

二大政党化が云われる政権選択の中、多様なニーズを受け入れられる政策がなされるのか、出された政策をスムースに実行できる行政になりうるのか、不透明なまま、選挙が始まった感があり、少子高齢がどんどん顕著になるこれから、ワーキングプアが野放しにならず、それぞれの人権に配慮した安定した福祉政策を望みたいと思います。

2009-08-24

分けない!切らない! It doesn't divide. It doesn't cut it.

木曜からの名古屋の旅から帰り、今日は一休み。

反貧困色を強く出した共同連 in 名古屋のてんこ盛りメニューを噛みほぐすべく、まずは振り返る。

8月20日(木曜)、職場メンバーと夜の名古屋に辿り着くなり、夏らしさを味わえない札幌人たちを蒸し暑い湿気のお出迎え、まずは一杯と、飲み屋散策したものの結局どこにでもある居酒屋チェーン店に潜り込み、「名古屋名物、くれ」という。

8月21日(金曜)、本論の共同連 in 名古屋も初日は昼からで無理のないスタート。

「ソーシャルインクルージョン」とはごった煮の事と教えられ、身体の程度に関係なく共に働く事を目指す共同連は様々な反貧困と連帯を組む事が話され、年越し派遣村の村長、湯浅誠氏の講演の後、会場横の吹上公園にて野外交流会、韓国のチャンゴの響きが心地よかった。

8月22日(土曜)、二日目は盛り沢山の内容で、疲れてしまったけれども、思いを同じにしている方達の全国大会だけに、安心感はある。

午前の分科会は事業別という事で、僕は「異業種交流」の部会に参加。滋賀県の「ねっこ共働作業所」の白杉滋朗さんのコーディネートにより、愛知の「豊生ら・ばるか」の夏目浩次さん、大阪の「エル・チャレンジ」の丸尾亮好さんの福祉と民間のコラボレーションの話に、愛知の鶴田商会エコ・ブランチの鶴田紀子さんの定年なき雇用の零細企業の実践例が話される。

今回の全国大会のテーマ「分けない!切らない!」が見えてきて、面白い。

午後の講演会は「海外の学ぶ社会的事業の可能性」と題され、イタリア、韓国、フィリピンの実践されているお話がされたけれども、満腹の昼飯弁当の後だけにお眠りモードの「夢の途中」。

その後に上映されたイタリア映画「やればできるさ」は精神病院解体にまで至ったイタリアの精神障害者の協同組合のお話で、精神障害者の社会的な差別環境(社会的障害)を克服する話がうまく描かれていた。イタリア映画祭2009でのみの国内上映しかされていないワーナーブラザーズ配給作品はこのまま埋もれることなく、一般公開して欲しい。

長い二日目、最後は例年盛り上がると聴く交流会で、全国各地の方達と和みの一時。催しもの初めの「名古屋万歳」の生ライブと催しもの定番「矢島美容室」に心奪われる。

交流会は二次会へと進み、うちらは滋賀県の「がんばカンパニー」の中崎ひとみさんと熊本の方達とともに語らい、終わる。

8月23日(日曜)、最終日は午前の分科会が今日の状況を語り合うという事で、僕は「セーフティネット/所得保障」に参加。

わっぱの会所属の市議会議員、斎藤まことさんの進行で、DPI日本会議議長の三沢了さん、リソースセンターいなっふの岡部耕典教授、日本障害者協議会にも関わられている石渡和実教授、お三方による所得保障の理念であるベーシックインカムはその認知度が低いためか、議論となりはしたものの、僕としては、もっと具体的、現実的な所得から天引きされる社会保障などの目減りの問題から、「働く」を基礎ベースに動いている共同連なりの「セーフティネット/所得保障」を話し合うべきと思いもした。

労働でありながら、福祉サービスと位置づけられている「障害者自立支援」の利用料負担の問題などもある意味、所得保障の問題でもあると思うのだから。

最終日午後はビデオ上映でもあり、軽く流された感もあるけれども、盛り沢山な全国大会を終え、帰路、見送ってくれた方が「飛行機から四日市の花火が見えるかも知れませんよ」と教え頂く。名古屋を離れる飛行機の窓から、四日市の花火が遠くに小さくも見え、飛び立った後も、名古屋近郊の街だろうか、あちこちで小さく見える大輪の花火が打ち上がっていた。

2009-08-20

行く前からホームシック Homesickness before it goes

今晩から会社の研修のようなもので、名古屋旅行。総勢10名以上の大所帯で、名古屋でのスケジュールはびっしり詰まっている。

拘束を嫌い、自由を愛するA型射手座にはボール・アンド・チェーンみたいな重い気分。

せっかくの名古屋旅行。初見聞の時間を作れないかと思う一方、行く前からホームシック状態。

やはり人生は試練なのだろうなぁと。「大脱走」「パピヨン」のスティーブ・マックィーンのような気分。

いい出逢いに望みをかけて、まずは行って参ります。

地震、台風、ゲリラ豪雨、新型インフルエンザとの未知との遭遇がない事をまずは願って。

2009-08-16

幼子われらに生まれ Puer natus est

それぞれ子持ちで、バツイチ同士の夫婦とその子供たちの物語。

一緒に暮らす妻の連れ子の長女が思春期を迎えた時、バツイチ同士の夫婦の間に「我が子」を妊娠し、それが理由なのか長女は感情が不安定となって、義父に対し、嫌悪感をあらわにする。

俗にいう他人同士の複合家族の幸福とは何かを描いた重松清の「幼子われらに生まれ」はそんなねじれた関係の幸福論。

1970年代は核家族化の時代と呼ばれ、女性の自立や単身赴任などで、核家族化は更に、離婚の時代、母子家庭、父子家庭の時代へと流れ移り、「クレイマー、クレイマー」などという映画も作られもし、連れ子再婚の複合家族も急増しているという。

実の父に虐待経験ある長女が、「本当のお父さんに会いたい」と云いだし、それが心の傷となり、仕事も手が着かなくなり、現実逃避に向かう育ての父。

現実のぎりぎりのところで行われる綱渡りは、仕事が生活の中心であるかのような現代の闇社会とでも呼びたくなる世界。

理解は出来ないけど、こうなるのもありなのかなと思わせる重松清の話術はいつもながら巧みではあるけれども、終盤になって、重松清の甘さが出てしまったような気もする。

平々凡々なはずの家庭とは案外すさまじいほどの忍耐から成り立っているようにも思え、未婚の母として、僕を身ごもり、養父と結ばれた実母、実母が死んだ後、養父の元に嫁ぎ、血のつながりも何もない義母との養父亡き後の暮らし。

思い返せば、そこには平々凡々であるためのすさまじい忍耐が数多くあったとの話を聴かされた想い出が蘇る。

人は夫婦というつがいは元々馴染まず、第三者の介入があるからこそ、夫婦というつがいが保たれているという話を聴いた事もある。

人との距離をうまく取れなくなってきた現代人は、われらに生まれた幼子たちに翻弄され、自分の生存価値を知るのかも知れない。

2009-08-15

チェンジリング Changeling

予告を観た時、何故、クリント・イーストウッドは1920年代に起こったゴードン・ノースコット事件を映画化しようとしたのか、気になっていたけど、先日、その映画「チェンジリング」を観てきた。

この映画の感想としては、知人のブログで「正義は勝つ的勧善懲悪で、世界大恐慌のあと、ヒトラーの台頭と第二次世界大戦に向かうこの時代を背景にしているのだから、何故このような事件が起こり、警察の腐敗が起こったのかが描かれれば面白い作品になったのに」と、物足りなさ気味な感想を書いていたのだけれども、それは僕が思った何故この題材を映画化したのだろうという疑問とクロスするようでいて、相反するような気もする。

行方不明になった我が子を必死に探す母と安易な解決を望む警察の確執が軸で、そのバックに残虐な犯罪があったとする構図で、何に対してこだわるのかに対し、クリント・イーストウッドは行方不明になった我が子を真剣に探さなかった警察に向けられており、例え、凶悪事件の犯人が裁かれ、死刑になったとしても、問題点は何も解決していないという事に絞られていっていると思う。

被害者遺族の感情が単なる復讐ではなく、我が子を帰せであると観るならば、この映画は立派に普遍的なテーマを背負っている。

世論が結局極刑に満足するやばさは、いつまた警察の安易な事件解決を許す事にもなりかねないという事をこの映画は語っているように思える。

2009-08-14

低コストバラエティ Low-cost variety

今の世の中、スポンサー資金も底をつき、テレビ業界は毎日がギャラの安いタレントを集めたスタジオトークの低コストバラエティのオンパレード。

その草分けを作ったのは昨12日に亡くなられた山城新伍氏だろう。

生き残りをかけたテレビ業界はデジタル化移行という重い枷をつけられ、資金繰りも大変なようで、ニュース部門も、押尾騒動からのりピー逮捕へスライドし、押尾君、得したね、とマスコミ至上主義の輩たちが訳の分からない感想を述べたりしている。

時も時、静岡の大地震はここ一週間の世界の地震、Latest Earthquakes in the World - Past 7 daysでも赤字で記され、その危険度合いは強調されているけれども、折からの選挙関連の報道などでは、自民下野、民主天下と先走るマスコミ予想が紅白歌合戦さながらにあおり立てられる。

日本沈没前夜に、低コストバラエティはないだろうになぁと思うけど、山城新伍氏の水先案内で地獄の釜へマスコミ共々総玉砕となるのだろうか?

「仏法僧」と鳴く蝉時雨がぽっくり浄土に誘うように。ほら、曼珠沙華が待ちわびている。

「サヨナラだけが人生だ」

2009-08-12

墓参り Visiting a grave

平日の仕事も一足早く有休を取ってのお盆休みに入り、実母が8月12日、養父が12月12日と月命日が重なり、今日はお盆もあわせたお墓参り。

墓参りといっても、お寺の納骨堂に遺骨を預けているので、「納骨参り」なのかも知れないけれど。

実母が亡くなった時、その遺骨を納骨堂に預ける際、お金がないから一番安い納骨管理費の場所に預かって貰ったけれども、せめてもの気遣いと、窓のある納骨棚の列に納めて貰った。

その後、養父が亡くなった後と思うけど、その納骨されている階が改装工事に入り、ワンランク上と思われる納骨場所が作られ、窓のある納骨棚の列に納められていたはずのうちの遺骨の場所は窓もなく、新たに作られた壁と向かい合わせの何とも寂しい日陰の場所になってしまい、憤慨しながらもお寺さんに文句も云わず、何年間かのお盆を過ごした。

今年もお寺に行ってみると、一列ずれた窓のある列に空きになった箇所を見つけ、納骨場所の移動が可能なものか、墓参りの帰り、お寺さんに問い合わせてみた。お寺の若い事務職の女性に、入った時と今の納骨場所の様子の変わり様を話し、窓のある列に移動出来ないか聞くと、同じ階の移動は手間料として1万円かかるとの返答。

これはおそらく仏様の試練なのか、頼みもしないのに遺骨を日陰にされ、空きとなった日当たりのいい場所に移るのにはお金を必要とされる。

「地獄の沙汰も」というけれど、地獄はやはりこの世の者。

「今後日陰に置かぬ事」と一筆書かせ、移動して貰おうかとも思ったけれど、釈迦に説法。無駄だろう。

開業祖、道元様も云われている「醜き事を知ってこその悟り」。

亡き父母に詫びつつも、今年も寺を後にした。

2009-08-10

七転び八起き Ups and downs

アルバイトの若い奴が仕事の帰り仕度の時に、「『七転び八起き』ってなんで七回転んで、八回起きるのかなのか」と雑談しているのを聞き、自分なりにその理由を考えてみた。

起きていることをデフォルトとするならば、転ぶことからカウントするから、『七転び七起き』となるだろうけど、転んでいることをデフォルトにするならば、起きることからカウントされるから、『七転び八起き』なのじゃないか。

人は起きている今を当たり前と考えるけれども、一日の始まりは起きることからスタートするように、起きているは当たり前ではなく、その前に必ず起きるという事をやっている。

起きることからすべて始まるのだから、『七転び八起き』は何度でもやり直せるスタートが人にはあるのだよということわざなんじゃないか。

デフォルトが変わることで、頑張れ、頑張れとなるか、くよくよするなとなるか、意味が変わってくる。そんな事例がこの世の中には無数にあるんだろうなぁと、ふと思う。

2009-08-09

身だしなみ Personal appearance

職場で若い奴らの身だしなみがまた云われ始めている。

「髪が長い」「ワイシャツの袖は肘が見えるくらいに折るように」

大した年が違わない連中がこれまた大した年が違わない上司から指導を命じられて口やかましく云う。

勤務態度を見て回り、帰ってきた奴がすっきり短髪にした奴の事を「短すぎて気になる」と神経過敏な自分を笑う。

職場のお偉いさんが以前、短髪にした奴に「もっと髪を長くしろ」と文句を云った事を思い出した。

お金で人の身なりを思い通りにするというのはコスプレといわなかったっけ?

人権無法国家の奴隷たちの奴隷ごっこ、「奴婢訓」はあえぎと快楽に男も濡れる。

韓国の人権啓発映画「もし、あなたなら 6つの視点」でも借りて観ようかしら。

2009-08-07

日曜日の夕刊 Evening newspaper of Sunday

日曜日に夕刊があったなら。そんな感覚で書かれた12編の小説たち。

だらしないのが嫌いで周りからチマ男と呼ばれる男とどうしても整理整頓が出来ないガサ子の恋愛ストーリー、「チマ男とガサ子」から始まり、恋人、夫婦、親子の物語が重松清ライクに展開される。

隣の席の奴はいつも書類がチョモランマ状態にうずたかいとか、オトタケさんの『五体不満足』をまねて、「浪人は不便だけど不幸じゃない」と友だちにファックスしたら、絶交されただとか、サンタの格好でバイトをしている主人公がダッコしたガキに「むなしくない?」と耳打ちされたとか、シニカルな描写を交えながらも、日曜日に夕刊があったなら的な目頭が熱くなる物語が繰り広げられる。

問題を抱える当人の語りではなく、例えば悩む我が子を抱える父親の語りで綴られる「さかあがりの神様」「後藤を待ちながら」「卒業ホームラン」などは第三者の視点だから、見えてくる本質もあるのだと教えられる。

いじめにあう息子と学生時代に同級生をいじめた父の「後藤を待ちながら」などはいじめた同級生、後藤君は息子に助言はするけど、父親とは再会しない。

「いじめられたら思い切り泣けばいい」

あまりにもストイックな助言もいじめた父だから理解出来る事もある。

第三者が世の中の出来事をどういう視点で捉えるのか、それは単純化された教科書的な視点で見落としがちになる落とし穴がある事を重松清「日曜日の夕刊」は書き綴っているように思う。

日曜日に夕刊があったなら。ゆとりをなくした現代だからこそ、望まれる言葉なのだろう。

すこし愛して ながく愛して It loves long because it loves a little.

このところ、1970年代に活躍された方々が相次ぎ亡くなられている。

大原麗子さんもそのひとりで、死後2週間後の発見という孤独死だったらしい。

大原麗子さんといえば「すこし愛して ながく愛して」のコマーシャルというイメージだけど、活躍当時はキュートなお姉さんというイメージがあった。

よく行く定食屋に飾られた色紙にこんな文句が書かれてある。

今日も一日がんばりました
がんばったあなたに、夕焼け小焼け

お疲れ様も聴けぬまま亡くなられた方達に、「すこし愛して ながく愛して」

2009-08-05

自虐と鳴く蝉 Self-torment and barking cicada

昨日8月4日、札幌でもアブラゼミの鳴き声が観測されたというニュースが流れていた。

夏のこの時期に鳴くアブラゼミの鳴き声は、揚げ物をあげる油の音に似ているという事からアブラゼミと呼ぶらしいとニュースキャスターは話していたけれど、子供の頃に聞いた夏に終わった日本の戦争に絡めたアブラゼミの話が、僕の記憶にある。

アブラゼミは戦争当時、戦死した兵士、戦病死した志願兵、空爆で無差別になくなった民間人、その人たちの死にたくはなかったという鳴き声なんだよと、誰からともなく教えられた。

今、1940年代以前の日本映画の現存状況がどれだけあるか、当時のフィルムの大半を所蔵している東京国立近代美術館所蔵映画フィルム検索で調べているところだけれども、1900年代はわずかに一本、1910年代は四本、1920年代は139本、1930年代は553本、戦渦の時代の1940年代は427本という数しか存在しない。

戦前は可燃性の高いフィルムであっただけに、保管が困難を極めたと聞くけれども、海外の同じ環境での現存状況に比べると、庶民の娯楽に対する国の無関心さが鮮明であるだろうし、保存数の多くなる1930年代、1940年代も10年間で400、500の数は一年で40、50本しか残っていないことになり、当時を知るというほどの資料は日本にはないといえるだろう。

当時の映画の散在は、黒澤明監督のデビュー作「姿三四郎」は検閲後の不完全なもののがロシアで発見されたし、長塚節の原作で内田吐夢監督の「土」は始めと終わりが欠落したものが同盟国だったドイツで発見されていたりする。

日本の占領下に置かれた韓国では当時の映画の大半が破棄されたとも聞く。

同盟国ドイツではこの時代の映画の現存率はかなり高く、フィルムの劣化が進む事を考慮して、デジタルリマスターによる高画質の保存も進んでいる。

日本に戦時下の庶民の娯楽の記録はほとんど残っていない。

横浜市で第2次大戦の歴史認識などを巡り、物議を醸した自由社版「つくる会」の教科書が採択されたという。

自虐と鳴く蝉は自虐を知らぬまま、鳴き続ける。

2009-08-04

ストーカー Stalker

週末に職場で一緒の気心知れた近所のおばちゃんにこの頃、ストーカーされてます。(笑)

平日の朝、せわしなく身支度を調え、家から出て、出勤のために地下鉄に向かう時、気もそぞろに急ぎ足で歩いていると、いきなり背後から襲われる。

「おはよう」

自転車に乗ったおばちゃんはそのまま自転車を停めもせずに、そのまま走り去り、その一声に朝ぼけ気味の僕は後ろから思いきり、殴られたような衝撃を受ける。

今朝もその恐怖に動物的本能全開で、周りを気にしながら歩きつつも、おばちゃんの「おはよう」アタックに襲われた。

帰りの夜道より、出がけの朝におびえながらもそれを待ちわびる私。

2009-08-03

バッファロー・ソルジャー Buffalo Soldier

セントアンナの奇跡」に出てくるバッファロー・ソルジャーって、聞き覚えがあると思い、思い返すと、ボブ・マーレーの歌にあったんだよね。

俺はアメリカのど真ん中にいる ただの水牛兵
アフリカでさらわれ アメリカに連れ込まれた
着くなり戦闘だ 生き残るための戦闘だ
アメリカのため戦争に加わった水牛兵なのさ

アメリカのために、生き残るための戦いを強いられた黒人兵に自分のルーツを思い出せと歌うこの曲はやはり名曲だよなぁ。

「社会」のため、「国」のため、どうせ死ぬなら、死ねという奴らを殺してから死ね。そんなメッセージが聞こえてくる。

一億総玉砕といわれた時代、生き残り、戦死した友のためにとうそぶく日本の嘘にも通じる歌だよなぁ。

2009-08-01

セントアンナの奇跡 Miracle at St. Anna

タイトルにもなっている「奇跡」にロマンは感じなかったし、どうでもよかったけど、スパイク・リーらしい「アメリカの問題」提起は素晴らしかった。

「敵は敵にいなく、味方に敵がいる」という視点はゆるぎなく、白人の戦争における黒人兵部隊、バッファロー・ソルジャーの描写は、パルチザンの中の裏切り者も白人と黒人の関係と同じように描かれていく。

しかしながら、結末の「奇跡」は成金趣味的で嫌だったなぁ。そして、物語の発端となった1983年のニューヨークの郵便局での射殺された男性客は結局誰だったんだろう?謎解きの謎が証されないままに映画が終わったような感じで、あの這い上がりたいプア・ホワイトの新聞記者のように大音響流れるエンディングロールで立ちすくんでしまった。

なお、原作本は日本語翻訳されていないようで、原語版しか入手が出来ないとか。世界のシンクタンクを誇った「君が代」ニッポンも落日なのかな?