日本文化の貧弱さ 映画作りの苦心の跡から
自分の国の文化に投資をし、企業イメージなり、資産家としての誇りを高める事が海外ではスティタスであるのに、日本では何故か、文化に対する投資はあまり行われず、作家達が苦心惨憺し、金策に走り、文化作品を作り上げるのが通例になってしまっている。
音楽だと、島倉千代子、美空ひばりなどの日本を代表するような歌手のディスコグラフィもレコード会社には存在せず、コレクター達が必死になって調べ上げたものが、昨今の資料重視の中、全集ものに添付されたという話を聴くし、戦前の邦画が戦災でほとんど消滅したのは本来大問題なのだが、致し方ないとするとしても、戦後作品のフィルム保存状態のひどさは、映画に対する文化意識の欠如であるとしか云いようがない。
売るためだけの文化品も、海外で、例えば坂本九の『上を向いて歩こう』がアメリカでミリオンセラーを記録したり、黒澤明、溝口健二、小津安二郎などの作品が国際賞に輝いても、日本人は今のようなグローバリズムを理解できずに、ひたすら消耗品としての映画や音楽を作らせ続けた。
黒澤明の自殺未遂以降の映画作品は海外資本だし、日本資本に見切りつけた大島渚、今村昌平も国際的評価で作家生活を成り立たせていた。
近年、日本映画に対する海外の評価が高まってはいるけれど、相も変わらず、日本資本の文化センスのなさは情けなくなるばかりと感じるのだけど、如何だろうか。
カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと男優賞を受賞した映画『誰も知らない』の制作苦労話なんてよく知られた事だろうけど、自分の社会に対して厳しい視点で描かれるものに対し、どうも日本資本は金を出し渋る傾向も見られる。
今年に入り、いろいろ映画を観る中、クロス・カルチャー的な映画が増えてきたように感じられるけど、日本資本で作られた映画のセットの貧弱さは観ていて痛々しい。
阪神淡路大震災を再現した映画『ありがとう』も震災再現の前半は特筆すべく、ニュースフィルムとCGに負けないくらいのセット撮影がなされていたが、後半のプロゴルファーになるあたりのセットはテレビスタジオかと思うほどだった。
乙一原作の映画『暗いところで待ち合わせ』なども物語的にはかなり危うく、映像化すると現実離れを感じさせそうな話を、丹念な心のディテールを描きあげていたが、メインとなる主役ミチルの家の居間はもろにセットと判るもので、資金不足で苦労された痕跡がこちらにも伝わってきてしまう。
かつて、まだ国全体が貧しかった頃、1000万円映画として、資金不足を工夫し、文化を守り抜いた日本映画と何も変わらない映画界の現実を、最新作の映画群は我々に示してくれる。
日本を舞台にした外国映画が凝ったセットを提示するのと比べ、未だに貧しいセット撮影を余儀なくされる日本映画界で聴かれるのは、ソフト化での利益を売りに出す映画ファンド。
嫌韓流でもなんでもいいけれど、もっと自分の国の文化を自慢できる社会であって欲しいもの。
海外では自分の国の文化の話からコミニケーションが始まるけれど、日本の映画や音楽の話を海外の方からされて、どれほどの人がそれに受け答えできるのだろうか。
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