2006-05-28

パッション (The Passion of the Christ)

靖国問題を問い直したい」に書いた事。


「個人が社会を動かせるか」という話になりはしないでしょうか?

昨晩キリストの受難を描いた「パッション」を見たけれど、集団リンチ映画。ベクトルを示され、それに対する反動が穏健派をも巻き込む怖さを描いていました。

反戦を語る時、個人の出来事で語ろうとするのは無理があり、集団を見なければ、社会を見失う。

右と左の違いとして「資本」の取り扱いがあるように思えますが、「資本」に対する寛容さからすればどちらも互角でして、小泉や石原慎太郎なんてその言動を見ていると左翼のように思えてくる。つまりは「資本」にこだわりすぎる。

2.26の背景として、農村の貧困の解決を国内に求めるか、国外に求めるかが起因とされていましたし、国外に解決策を求める方は「八紘一宇」を掲げ、義勇軍としてアジア和平に乗り出していくけれども、十字軍や昨今のイラクと同じく、大きなお世話に阻まれ、テロリストと化す。

誰が悪いというわけではなく、人に対する寛容性の欠如(イントレランス)の問題でしょう。

そして、裁きの視点が同じ時期のドイツの構造やその国家の中の問題に対しては裁かない論理から戦犯基準が曖昧になり、「私は貝になりたい」悲劇を引き起こす。

「上官の命令で捕虜を殺しました」
「あなたは同意したのですね。」

上官は無罪、手を下した二等兵は死刑。
戦後日本はこういう上官達が娑婆に帰り、高度成長に貢献した。

だから、指令を問題とするよりも現場を問題にすべきであり、縦社会としての日本を問い直さなければ、キリストの受難と同じく、魔女狩りは続くでしょうね。

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