ナチス・ドイツとスターリン・ソビエトに挟まれた国、ポーランドで起きたポーランド軍将校たちが虐殺された「カティンの森事件」。1939年9月、逃げまどうポーランド国民は西からドイツ軍、東からソビエト軍に追われ、ポーランド東部では武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられたという。
その大虐殺で父を亡くしたポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダがその事件を題材にした映画が、年末から札幌でも封切られ、ちょうど入院時だったため、観られないとほとんどあきらめていたのが、思ったよりも早い退院のお陰で、上映最終週、退院の翌日に観ることが出来た。
戦後、ソビエト傘下の社会主義国になったポーランドで、「灰とダイヤモンド」などのレジスタンス映画を撮り続けたアンジェイ・ワイダの真意は、なかなかストレートに描き出すことが出来ないまま、民主化が進んだ後に、社会主義の暗部を解き明かす「大理石の男」、「鉄の男」などを撮り続け、ようやく監督の思想の原点であるだろう「カティンの森」に辿り着いたという思いがある。
それはネットでよく見かける聞きかじりの反共思想の連中が政治利用しようとするような生半可な代物ではないはずで、敗戦日本が、ソビエトとアメリカに分断されかかり、結局、アメリカ傘下になったとたんに、「ギブ・ミー・チョコレート」と鬼畜米英の日章旗をドブに棄てて、生きるために星条旗にこび売った国民性には、祖国を分断され、祖国を奪い返そうとし、灰になった行った国民の苦悩は理解出来ないだろう。
映画「カティンの森」はそれくらい判りやすい作品になっていて、人間の尊厳に対する組織暴力、国家暴力を描いている。その中には祖国を棄てて、生きるために社会主義者になった者に対し、「灰とダイヤモンド」の青年のように刃向かい、無駄死にする若者も描かれており、アンジェイ・ワイダの永遠のこだわりがフィルムに刻まれている。
ゴミのように投げ捨てられる将校たちの遺体は、人間死ねば、どのように扱われるか判らないという証であるだろうし、生きているから「人権」を語りえる。
死んだ者たちへのレクイエムにこだわるアンジェイ・ワイダの話法は確かにうまいけど、死んじゃいけないという事を今の時代だからこそ描いて欲しいと思う。
松明のごとくわれの身より火花の飛び散るとき
われ知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
もてるものは失わるべきさだめにあるを
残るはただ灰と、嵐のごとく深淵におちゆく混迷のみなるを
永遠の勝利の暁に、灰の底深く
燦然たるダイヤモンドの残らんことを
ポーランドの詩人ノルヴィト「灰とダイヤモンド」
そして、貧しき文化後退国日本にアンジェイ・ワイダ他のポーランド映画がNHK-BS放映のみならず、DVD復刻が一刻も早くなされますように。
4 件のコメント:
亀井さん
退院おめでとうございます。
私は退院後、すぐには仕事はしませんでした。
体が衰えていて、歩くのもゆっくりゆっくりとでした。
私は一度死んで蘇ったような感じがしていました。
「仕事」の価値観ってなんでしょうね。
自分のしたいこと。
お金を稼ぐ手段。
人との繋がり。
生きることが「仕事」となる「仕事」がしたいなぁとこの頃、感じます。
「蛇を夢見て」という歌でこんな詩が朗読されています。
一生闘う者でいたいですね。
一日闘う者がいる。良い人間だ。
一年闘う者がいる。より良い人間だ。
何年も闘う者がいる。とても良い人間だ。
一生闘う者がいる。不可欠な人間だ
ベルトルト・ブレヒト Bertolt Brecht
亀井さん
仕事と無為の問題があると思います。
仕事人間にも、無為があると思います。つまり、無為は創造的なのです。
ですから、仕事をしない人を否定するのは誤りです。つまり、無為には、創造性があると思います。
観照にも創造性があると思います。
思うに、無為の人に、
闘争性が生まれると思います。
「蛇を夢見て」の歌詞は「蛇を追い払うと更に大きな蛇が襲ってくる」というものです。
仕事人間というか、この世の仕組みは困難の歯止めが利かなくなることでしょうね。
ミッシェル・エンデの「ネバーエンディング・ストーリー」は「無」が世界を覆い尽くす話ですが、「無」とは何か、それは便利さで自分の好みだけ追い求め、困難の歯止めさえ、関心なくなること何じゃないのかなと思います。
「蛇を夢見て」とは生きる困難さを知ること何じゃないでしょうかね。
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