豪華華麗に始まった北京オリンピック。資本と文化の融合であり、激突でもあるオリンピックは個人、団体の競技が「国家の名誉」に置き換えられるイベントでもある。
古くはベルリンオリンピックをドキュメントした『民族の祭典』『美の祭典』のように各競技の模様が全体主義的に映し出され、物議を醸し出した話などはその後の「オリンピック・ドキュメント」にも数多くあり、競技が個人、団体のものなのか、国家のものなのかというのは永遠の議論である。
フランスのグルノーブルオリンピックを描いたクロード・ルルーシュ監督『白い恋人たち』では資本の力にあらがう分断され、大国の選手として闘う小国の選手たちに「彼女の演技を彼女の国の人はお金に換算する。得意のコンピューターで、山分けを計算する。分断され、祖国を失った人は自尊心のため、闘う。」とエールを送っていたし、市川崑監督の『東京オリンピック』は競技の模様を通し、戦後日本の民主主義的な復興を世界にアピールしていた。また、テロ事件を引き起こしたミュンヘンオリンピックの競技模様を映し出した『時よとまれ、君は美しい』は政治的問題を描こうとする監督たちとオリンピックの華やかさをアピールした制作側のせめぎ合いがあったと聞く。
僕が中学一年の時、札幌でオリンピックが開かれ、その時もまた、オリンピック・ドキュメントは作られた。
ちょうどその時のうちのクラス担任がスポーツ関係でなのか、オリンピックの開催に関わっており、授業の合間に、オリンピック競技のサポーターとして、出向き、会場でのエピソードを生徒である僕たちに教えてくれた。
スキーのジャンプ競技で、メダル獲得が本命視されていた選手たちを差し置いて、無名の選手が金メダルを取るという大きな番狂わせがあり、オリンピック・ドキュメントを作っていた映画スタッフは大慌てで、撮影していない無名の選手の金メダルを取る瞬間を再現するために、うちの担任教師も駆り出され、飛んでもいないのに、着地地点で飛距離の札を持ち上げる「芝居」をやらされたという。
この話を聴いてから、ドキュメントもまた作る側の作為あるもので、後に知った元新聞記者であるガルシア=マルケスの「ノンフィクションはノンフィクション作家が作り出すフィクション」とかいう言葉に共鳴を覚えたりしたものである。
オリンピックという祭りの中、参加した選手たちの努力を安易に「国家」レベルで論じる愚はいい加減やめにしたい。論じるなら、「寂しき地球人」として語り継ぎたいものである。
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