2008-08-22

本に署名する事はおかしな事だ The thing signed to the book is a strange thing.

ラテンアメリカ文学の偉人ボルヘスの名著「伝奇集」に「本に署名する事はおかしな事だ」と明言する箇所がある。

「剽窃の観念など存在しない。すべての本が、時間を超えた、無名の唯一の作者の作品であるという事は確かな事だ」と続けて、ボルケスは云う。

名著「不死の人」でもフランシス・ベイコン「エッセイズ」を引用し、「すべての知識は追憶に他ならず」「すべての新奇なるものは忘却に他ならず」と語りもし、無名の書物たちの掘り起こしに尽力された人でもある。

現代社会に「著作権」なるものが大手を振るようになったのは1970年前後のようで、それ以前に巻き起こった過去の文化の掘り起こしであり、民衆史の発掘でもあった「フォークブーム」の反動のような形で、「フォークブーム」の発信地アメリカを始め、世界的に「著作保護」が法制化されていった。

クラシック音楽のドボルジャーク、ラベルなどの「民謡」の編曲に限らず、近代における文化の搾取の憂き目にあっていた第三世界がこの「著作保護」に黙っているわけもなく、未だに続いているボサ・ノーヴァのジョアン・ジルベルトの初期作の著作権裁判などはよく知られた話でもある。

「先進国」の「著作保護」に対し、音楽ではレゲエやラップなどでどこまで「加工」すれば「オリジナル」なのかを競うジャンルが生まれもしたし、総合芸術とされる映画はどの部分が誰の著作か問う裁判が絶え間ない。

ボルヘスが問う「署名」の矛盾とはこの世の中にその人だけが作り出す「オリジナル」などあるはずがなく、誰かしらの影響や感銘を受け、「語り部」として語り継がれるのが「著作」であり、歴史の継承の証ではないのかという視点であろう。

日本神話の黄泉の国の話はギリシャ神話の「オルフェ」と類似しているけれど、そこに語られる事を「剽窃」などという論議でみていくと、事の本質を見失う。

大手企業のアイデアが中小企業のアイデアの盗用であるなどはよくある話で、ミニシアターの映画館主が、幕間をなくしたのも、レディスディを企画したのもミニシアターの苦肉の策なのに、シネコンがマネをしたという話を聴きもする。

文化の源である大道芸も「流行」のコピーから始まり、そのエネルギーが次なる文化を生むといわれているのに、「著作保護」により、新たな「オリジナリティ」はその限界に達しているとも云われ、映画の都、ハリウッドでも旧作リメイクや第三世界の監督たちにハリウッド映画を作らせるという異文化混合の試みがなされもしている。

ミッキーマウスを越えるキャラクターを生み出せずに「著作保護」延長をごり押しするディズニーなどの話もあるし、日本では「映画監督は映画の著作権者ではない」とする配給サイドよりの法律もあり、企業のための「著作」がますます強くなっている。

「著作権」を行使するならば、廃刊、廃盤などで触れられなくなった「著作」の「見る権利」を補償しろと云う話も聴くし、字幕や音声などで文化物に触れられる機会を得られるようになった障がい者たちが「著作権」により疎外されている事例もある。

「語り部」文化を嫌うことに対し、ボルヘスが「本に署名する事はおかしな事だ」と語る事はもっともな事と思うし、文献の引用頻度で、文章価値を競う価値観もあるらしい。

文化を如何に共有するかは、その時代の豊かさのバロメーターなのに「俺、俺」主義の「著作保護」は今なお大手をふるっている。

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