2010-06-13

疾走 Dash

自己顕示欲が強い世界で、自分を「いない者」とすることで生き延びた少年の話は「いない」が故に人々に玩ばれ、玩ぶ自己顕示欲が強い者たちもまた「いない者」と何も変わらなく社会に玩ばれる。

「いない者」として生きた少年だから、見えてくる社会の滑稽さは社会にしがみつき、自分の居場所すらぶち壊してしまう人々の愚かさを描いているようにも思えてくる。

重松清長編小説疾走」の怒りは弱い者同士が傷つけ、殺し合う社会に刃向かうには自分を「いない者」とすることでしかありえない寂しさのような気がする。

臆病な猫たちは「強い者」に可愛がられるように擦り寄り、「弱い者」を作って、自分の鬱憤をはき出す。

殴られ、蹴られ、衣服をはぎ取られ、身体を玩ばれる「弱い者」と「強い者」に可愛がられる者どもの哀れさは何も変わらない。

ただ、人の痛みを判るかどうかの違いだけで。

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