1970年に亡くなられた映画評論家、斎藤龍鳳の遺稿集「なにが粋かよ」の洋画時評を読んでいるところ。
アーサー・ペン『俺たちに明日はない』は名作のレッテルで僕自身、その評価を軽んじていたけれども、1930年代の恐慌時代と1960年代を重ね合わせ、ニュー・ディール政策が行われた前年、蜂の巣にされたボギーとクライドに「お前たちは明日を掴み損ねた」とあざけり笑う幻の明日に翻弄される愚かな庶民をあざけり笑う星条旗を暴いた映画という評価に、なるほどねと納得したりしている。
その前節、『アルジェの戦い』の評では、<団結>というサヨクによって胡散臭くなってしまった言葉をまずは取り上げ、「<団結>この言葉は往々にして悪用されるけど、<不一致>や<絶交>、そして<物別れ><口もきかない>などより、ずっとマシな行動であり、言葉である」として、「本来<団結>とは、意見の異なる人々との間にこそなされなければならないもので、ズブズブの馴れ合いどもが<団結>するなどは至極安易でインチキ臭い」と言い捨ててから、『アルジェの戦い』の評が始まる。
1960年代当時の日本におけるアルジェリア独立闘争を扱ったこの映画に対する批評に対する批評がなされ、世界史における三大陸(アジア、アフリカ、南米)における武装闘争の流れを押さえた上で、非暴力ではなしえないテロリストの理論が論じられている。
「例えどんな場所で死が我々を襲おうとも、我々の戦いの叫びが誰かの耳に届き、誰かの手が倒れた我々の武器を取り、誰かが前進して機関銃の連続する発射音の中で葬送の歌を口ずさみ、新たな勝利の雄叫びをあげるならば、それでよいのだ」
チェ・ゲバラの有名なアジテーションで結ばれるこの評は「人間解放」のあり方を混沌とした議論の時代に投げられたものである。
少数民族のチベット問題がグローバルなオリンピック聖火論争にすり替えられる今日、「人間解放」が熱く語られた時代に想いを馳せる。
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アルジェの戦い- OhmyNews : 1960年代の『アルジェの戦い』映画時評を読み返す
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