2007-03-30

心は石や煉瓦ではない Dil Hi To Hai

YouTubeを観ていて、日本のメディアはニュース性ばかりを追い、YouTubeWikipediaなどのような資料性になかなか目がいっていないと思ったりする。

僕自身、ネットに求めるものはニュース性より資料性が強くそのようなサイトを好むからかも知れないけど。

地下鉄サリンだったって、ニュース性として話題になったけど、世界が知りたがっているのは地下鉄サリンにあわれた方々の後遺症対策を社会が如何に取り組むかなのに、日本の行政はサリン渦被害の実態調査を行っていない事が、区切りの年となる頃にテレビのニュースでやっていた。

昨日も今騒がれている地域医療崩壊の実態をレポートする特集がローカルニュースで流されていたけど、研修医制度の改正が招いた副産物として、地域医療崩壊があるらしい。

政治云々を語る時、政党政治がまな板に上がるけれども、政治的判断とは個人個人が持っているもので、選択肢がある時、どちらを選ぶか、損得勘定する事が政治的判断なのに、それがすっぽり抜けてしまっている。

「心は石や煉瓦ではない」

インドの有名な詩人ミルザ・ガーリブのこの言葉はその政治的判断の不条理を唱っている。

心は石や煉瓦ではない
苦悩に溢れてはいけないのか
私は幾千回と泣くだろう
誰が私を苦しめ続けるのか

人生の牢獄と悲しみの束縛は
本質的には同じもの
死ぬ前に人はどうして苦痛から逃れられよう

悲嘆にくれたガーリブ一人いずとも
世の動きは止まらない
なぜさめざめと泣くのか
なぜ溜め息ばかりつくのか

2007-03-26

政治学 Politics

地方選公示間際の能登沖、原発銀座地震。

やっぱり「東京原発」誘致を掲げなきゃ。
日本に安全な土地なんかないのだから。

これやります。あれやりますの張り切り公約が良しとされていた日本の政治学。おらが村にも都会のゴミはいらねぇ、金寄こせのええじゃないかが必要かと。

ジャガイモ飢饉でアイルランド餓死者100万人以上出し、ケネディ一家をアメリカ大陸に追いやったイングランドの無策と同じになりますぞ。

国境の町ならば、もっと大切にしてくれるのかも知れないけれど。

ヴァン・モリソン&チーフタンズ「スター・オブ・ザ・カウンティ・ダウン」

あの娘が振り向くまで何もしないぞ。
仕事もしなけれゃ、飯も食わねぇ。

YouTube : Van Morrison & Chieftains

2007-03-22

字幕物語 Caption Story

イメージ

地元札幌のミニシアター蠍座のリーフレットを、館長のコラムが好きで毎月欠かさず、貰いに行く。

今月号は映画『バベル』で聴覚障害の方達から要望が出た日本語セリフの字幕要望に思う事。

館長さんは映画館として、例えば、『ストロベリーショートケイクス』のような健聴者でも聴き取りにくいセリフにお客から字幕が欲しいという要望があった話や字幕を邪魔に思うお客の心配などをされており、少数派と多数派の意見調整の難しさを心配されている。

確かに、現状から顧みれば、そのような論法になるのだろうけど、過去を遡れば、この視点はどうも違和感を感じる。

映画の字幕は聴いた話やWikipediaによれば、外国映画に字幕をつけている国の方が珍しく、アメリカ、ドイツ、フランス、スペインなど先進国はほとんど吹き替えが多いそうで、日本も無声映画の時は弁士をつけた「吹き替え」だったけれども、音声映画の始まりと共に、吹き替えより生の外国語を聴き、その訳文を読むという字幕映画が主流となったという。

そこには映画上映の経費の問題もあり、吹き替え俳優を雇うより、字幕ですませた方が安くつくという貧困日本の問題もあったようで、無声映画の衰退による弁士の失業などという話もあるし、ただ動けばいい役者の声の質も問題となり、大河内傳次郎など発声練習に苦労された方の話もある。

利用者云々の視点はここ最近の話であり、経済優先の社会システムで、「もっと利用者の利便性を考えてよ」というのが、事の本質のように思えてくる。

字幕業界の裏話はその刻み込まれた字数制限から、喋ってもいないセリフを字幕に流したりして、それが名文だったら、ストーリー重視なんかお構いなく、評判になるという、いいのか悪いのかよく判らない文化まで生み出し、日本語字幕の第一人者である清水俊二氏の「映画字幕は翻訳ではない」という名言まで飛び出す始末でもあったらしい。

また、同じ人間ばかり何十年も頼りにするから、後継が育たないという話も聴いた事がある。

『君のヒトミに乾杯!』

映画『カサブランカ』の喋ってもいない名文句は、レジスタンスという主題そっちのけで映画『カサブランカ』を不滅の名画にしてしまった。

サイレントにこだわると盲目の少女との恋を映画化したチャップリン『街の灯』同様、描く主体そっちのけの奇妙にねじれた博愛主義が字幕文化にはある。

ドキュメント映画『さようならCP』で字幕をつけると脳性麻痺者の言葉を聴こうとしなくなると、字幕付けせぬままの上映も、字幕づけ出来ない台所事情の言い訳にも思えたりもするけど、言葉を聴こうとしない差別意識も確かにあるだろう。

少数派と多数派の意見調整というより、ご都合あわせの政治力学がここにもあると思った方が無難でしょう。

ケンタッキー・フライド・ムービー』のようにエスコート役のボーイが紳士に「感じる映画」を体験させてくれるのはあり得ないだろうけど、『モダンタイムス』の機械によるお食事会や『時計じかけのオレンジ』の目薬指しながらの映画鑑賞などはあり得なくもない。

言葉通じない「バベル」の悲劇は心通じようとしない「バベル」の悲劇。

字幕に責任転嫁しないように。

  • ohmynews : 字幕物語 心通じようとしない「バベル」の悲劇
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2007-03-16

グル・ダッド Guru Dutt

グル・ダッド傑作選DVD-BOX、出るんだなぁ。

僕も1988年に開催された「大インド映画祭」でグル・ダッド映画に衝撃を受けたひとり。

札幌では代表作の『渇き』のみの上映だったけど、映画の美しさも素晴らしかったけど、それ以上に奥さんと愛人の板挟みに苦しんだグル・ダッドに思い馳せる。

インド映画はオペレッタといわれるミュージカル形式の映画が好まれており、俳優の演技にあわせ、口パクにあわせ、歌うプレーバックシンガーがいて、グル・ダッド映画では奥さんのギーター・ダットが主演女優のプレーバックを務めている。

『渇き』で主役の娼婦を演じた女優さんとグル・ダッドは恋に落ち、この映画のストーリーのような結末を迎える。

不倫、自殺がタブーな国において、その罪を犯してなお、未だに語り継がれるグル・ダッドの偉業はもしかすると今のインド・カースト社会の締め付けからの解放に繋がるのかも知れない。

残されたギーター・ダットの心境は複雑だろうけど、殊更、悲劇面のみを捉え、社会正義を訴えるよりは、男と女の化かし合いに何の枷も作らない方が粋なようにも思える。

今回、BOXに収録される『55年夫婦』はインドにて離婚が法的に認められるようになった事を祝うソフィスケート・コメディで、村社会からの解放を意味しているようでもあるし。

数年前、国際的な評価を得たインド映画『モンスーン・ウェディング』に「転ぶ事を恐れて、立ち上がらないのは臆病者」なんていうセリフがあるけれど、心狭いナショナリズムが寂しい地球人を増やす事にもなっている今、是非、見て欲しい映画でもある。

2007-03-14

ウードの調べ Sound of oud

悪の枢軸と名誉のご指名を受けているスーダン。
そんなスーダンにももちろんポップスはある。

スーダンといっても土地の広さは日本の非ではないからエジプト寄りの北側から、エチオピア寄りの南側まで多種多様な文化がある。

エジプト寄りの北側で生まれたハムザ・エルディーンはナイルのほとりにあった故郷をダムの建設で失い、生涯、流民として生きられ、日本にもよく来られた方。

そのウードの調べは誇れる故郷を奪われた哀しみと人々の団結の大切さを歌っているという。

エチオピア寄りの南側は嘘か誠か判らないけれど、三波春夫、河内音頭、江州音頭が街頭に鳴り響くこぶし文化の土地。

イギリスのグローブ・スタイルという音楽会社によって、日本にも紹介されたスーダン音頭の代表、 アブデル・アジーズ・エル・ムバーラクさんはお歳を召されたのか、映像ではじっくり腰を据え、歌われている。

ライブ盤も出たムハンマド・ワルディさんの節回しも月光の下、歌われているようで心地よい。

今はおそらく戦火を逃れ、いずこの地かで、この方々は故郷を思い、歌われているのだろう。

帰る故郷を破戒することなく、和平が成り立つことを願って。
砲撃費やして、地球炎上させる安易な政治家はいらない。

2007-03-13

シロ・モンテイロ Ciro Monteiro

ブラジルの家庭ではホームパーティでサンバを弾き語り、その地域ごとにサンバ学校なるものがあるそうで、サンバ学校同士の競い合いがあのカーニバルとなる。

大雑把に乱暴ながら、サンバを語れば、こうなるのだけれど、サンバの成り立ちやサンバ学校の人脈、歌謡サンバにホームパーティ・サンバが複雑に入り乱れ、幾多の才能を生み出している。

歌謡サンバから派生した粋なサンバがホームパーティ・サンバで盛んに行われるようになり、ホームパーティは居酒屋になる。

粋(ボッサ)の立役者はまたゴロツキでもあり、遊び人であるからこそ、粋(ボッサ)な歌を作り出し得た。日本で云えば、江戸っ子のようなもの。

若くして喧嘩で死んだシェラルド・ペレイラの歌を数多く歌ったシロ・モンテイロはその粋さを見事に表現した歌手。

マッチ箱すら楽器に変えて、指先でサンバのリズムを醸し出す。CD音源でイメージふくらませていたその貴重な映像を発見、もう感激!

この粋(ボッサ)を甦らせ、新しい粋(ボッサ・ノーヴァ)が生まれる事にもなる。


YouTube : Ciro Monteiro

2007-03-12

愛しのベイルート li Beirut

レバノン生まれのアラブの美空ひばり、ファイルーズ。
「何かがおこる」という意味深な歌を1991年頃、歌っていたりする。

あなたは私の事をあれこれ尋ねるけど、
私の事が好きなの?

私はいろんな物語知っている
そしてそれを覚えている
その全てのなんと甘美な事!

でも、それがいくら素晴らしくても
時と共に移ろい行くのは何故?
あなたへの私の気持ち
何かがおこる 何かが起きようとしている

時は流れて、あなたは私に議論をふっかける

私はいろんな物語知っている
そしてそれを覚えている
あなたが私に言った事 その全てが甘い言葉
でも、それがいくら甘美なものでも
私はあなたへの気持ちを変えられない

何かがおこる 何かが起きようとしている

そのファイルーズが1980年代、「愛しきベイルート」を歌い、アラブ圏で爆発的ヒットを飛ばし、日本でもCDが発売され、ワールドワイド盤も出たのは知られるところ。

ベイルートよ、心から平和がお前の上にあらん事を
古い街並みや塔、そこに住む人々、そして彼らの心
それらは火と砲煙に消えていった
ベイルートに平和が戻らん事を
ベイルートよ、私の許に戻っておくれ