札幌は気象観測以来最小の小雨の四月となるらしい。
寒暖激しく、暖かい日は一気に初夏を思わせ、桜もいつになく早咲きだったけど、水は生き物の命。
週末からのぐづつき模様も明日は一気に27℃という夏日になるとか。
気にしない人は気にならないのだろうけど、ガソリンの乱高下よりこっちの方がはるかに恐ろしい気がする。
猛暑、干ばつ、歴史は忘れた頃に繰り返すのだから。
札幌は気象観測以来最小の小雨の四月となるらしい。
寒暖激しく、暖かい日は一気に初夏を思わせ、桜もいつになく早咲きだったけど、水は生き物の命。
週末からのぐづつき模様も明日は一気に27℃という夏日になるとか。
気にしない人は気にならないのだろうけど、ガソリンの乱高下よりこっちの方がはるかに恐ろしい気がする。
猛暑、干ばつ、歴史は忘れた頃に繰り返すのだから。
「死してなお、語り継ぐ」チェ・ゲバラのアジテーションは亡くなった土地、ボリビアだけではなく、南米各地での抵抗運動に広がっていった。
映画『サンチャゴに雨が降る』で知られるチリ・クーデターではプロテスタント・シンガー、ビクトル・ハラがそのギターをつま弾く指を切り落とされ、処刑されはしたけれど、同士であるキラパジュンは「El pueblo unido jamas sera vencido(邦題「不屈の民」)」を歌い、民衆のレジスタンスが続けられた。
この「不屈の民」の曲を僕が始めて聴いたのが、寝たきりの脳性小児麻痺者、遠藤滋さんを撮り続けたドキュメント映画『えんとこ』であり、学生時代からの友人である伊勢真一監督のエールが「不屈の民」に込められ、遠藤滋さんの日常のバックに流れていた。
札幌ではDPI(障害者インターナショナル)の札幌大会にあわせ、上映され、遠藤滋さんもストレッチャーで上映会に参加され、ちょうどその時に始まろうとしていた障害者自立支援法の問題点を翌日の座談会で訴えられていた。
映画『えんとこ』は遠藤さんのところへ介助として集まってくる若者たちと、まだ身体を動かせた若い頃に養護学校教員をされていた遠藤さんとが共に生きる場を描いた映画であり、行政があてがい、制約多い介助業者では交わし得ない人と人の交流が描かれていた。
遠藤さんのところへ来る若者たちが語る日常の悩みを聴き、返答する遠藤さんは何をするわけでもないけれど、若者たちの心の支えになり、自ずと遠藤さんを介助するグループが生まれ、時には遠藤さんを海に連れて行ったりする。
海に入り、動かぬ足をばたつかせる遠藤さんを撮し、「遠藤も歩きたいんだ」と語る伊勢監督。「不屈の民」の音楽が遠藤さんを支え、海の感触を一緒に味わう介助者たちの顔に被さるシーンで、僕は涙した。
だって、君はひとりで勝手に何かをやってゆくことなんてできないだろう?
(遠藤 滋「いのちの肯定に立つまでの私の歩み」より)
1970年代、核家族化から障害を持った子を親が抱え込まなければならなくなった時、「母よ、殺すな」の叫びから始まった障害者解放運動は、1980年代、養護学校義務化がエリート教育の妨げのように実施され、介護の手間により、「迷惑かける」理由により、優生保護法で、施設で介護を受ける女性障害者の子宮摘出合法化された時期もあった。
1980年代、老人問題、障害者問題を取り上げた山田太一作「男たちの旅路」シルバーシート、車輪の一歩は、その立場になれば判ると、沈黙の座り込みを続けていた。
ワーキングプアの時代、障害者の比率も精神障害、アレルギーが大半を占めるようになり、「不屈の民」の肉体は温暖化する自然とともに環境破壊されている。
日本社会がその立場になれば判る時はもう間近なのかも知れない。
「不屈の民」を聴きたくなった。
1970年に亡くなられた映画評論家、斎藤龍鳳の遺稿集「なにが粋かよ」の洋画時評を読んでいるところ。
アーサー・ペン『俺たちに明日はない』は名作のレッテルで僕自身、その評価を軽んじていたけれども、1930年代の恐慌時代と1960年代を重ね合わせ、ニュー・ディール政策が行われた前年、蜂の巣にされたボギーとクライドに「お前たちは明日を掴み損ねた」とあざけり笑う幻の明日に翻弄される愚かな庶民をあざけり笑う星条旗を暴いた映画という評価に、なるほどねと納得したりしている。
その前節、『アルジェの戦い』の評では、<団結>というサヨクによって胡散臭くなってしまった言葉をまずは取り上げ、「<団結>この言葉は往々にして悪用されるけど、<不一致>や<絶交>、そして<物別れ><口もきかない>などより、ずっとマシな行動であり、言葉である」として、「本来<団結>とは、意見の異なる人々との間にこそなされなければならないもので、ズブズブの馴れ合いどもが<団結>するなどは至極安易でインチキ臭い」と言い捨ててから、『アルジェの戦い』の評が始まる。
1960年代当時の日本におけるアルジェリア独立闘争を扱ったこの映画に対する批評に対する批評がなされ、世界史における三大陸(アジア、アフリカ、南米)における武装闘争の流れを押さえた上で、非暴力ではなしえないテロリストの理論が論じられている。
「例えどんな場所で死が我々を襲おうとも、我々の戦いの叫びが誰かの耳に届き、誰かの手が倒れた我々の武器を取り、誰かが前進して機関銃の連続する発射音の中で葬送の歌を口ずさみ、新たな勝利の雄叫びをあげるならば、それでよいのだ」
チェ・ゲバラの有名なアジテーションで結ばれるこの評は「人間解放」のあり方を混沌とした議論の時代に投げられたものである。
少数民族のチベット問題がグローバルなオリンピック聖火論争にすり替えられる今日、「人間解放」が熱く語られた時代に想いを馳せる。
職場の組合の要望を実現すべく、職員が組合活動に無関心なうちの部署に作業依頼をしてきた。
案外、人を動かすという事はこういう事なのかも知れない。
書かれたものしか信じない人ほど騙され、踊らされる。
書かれたものを書いた人がどういう人なのか関心あれば、見抜ける事なのに。
人に対する無関心とテーマ主義が道を見失う。
狂犬の眼に真っ直ぐな道
黒澤明作品『野良犬』で語られる川柳のように、狂った人を如何に操るかが処世術なのだろう。
裏に裏があり、表返るかも知れないけれど。
人権軽視を書いたつもりが、伝わらなかったのか、「ニュースのタネ」
妻子殺され、マスコミ受けのパフォーマンスをしなければ、動かない司法と悪のりしかできないマスコミ文化のこの国に人権などあるはずないのに、そんなの先刻ご承知の釈迦に説法には、人権軽視とちゃんと書かなきゃ判らないのかな。
わめいたからといって、読み替え地獄のからくりが待っているだろうし、その時にはあの世から浮き世を眺めているかも知れないけれども。
これが浮き世地獄をつくる役目になるならば、ここは沈黙が吉が有難やなのかも知れないね
先日、落としたゆうちょ銀行の通帳が届いたと警察から郵便で知らせが来て、さっそく翌日、指定の警察署に行った。
昔ながらの役場的な造りの建物に入っていき、受付でどこに行けばいいか聴くと、二階奥と教えてくれ、さっそくあがっていくと、様々な課の配置図があり、留置面会の受付の奥に拾得物を扱う課があった。
暗い廊下を歩き進むと、留置面会の受付で問い合わせている家族がおり、身内で何か起こしたのだろうなぁとそれとなく家族の横顔を見ると、一番後ろに立っていた初老の男性の顔に見覚えがある。
30年近く前、職場でお世話になり、10数年前に定年退職された方で、歳取られれて、身内に何かあったのだろうと、場所も場所なので、声をかけずに通り過ぎ、拾得物受け取りの手続きをした。
手続き、終わり、引き返す時、狭い廊下に置かれた長椅子で座りもせずに、落ち着かなそうに留置面会の受付の係の様子を立ち上がり、見ているその方と目があった。
その方はこちらの名前を覚えておられ、なんでここにいるのだというような声で、声かけられた。
こちらも何を言っていいのか、判らず、近況を簡単に話し、長話にならないよう切り上げ、その方の前を横切り、外に出た。
妙なところで、昔よく知る人と顔を合わせるこの世の悪戯。
にっぽん、狭いぞ。ラリパッパ
近親溺愛、近親憎悪の日本を歌った長谷川きよしの「心の中の日本」(「心中日本」改題命じられ)が頭に過ぎる。
明日は我が身とならぬよう。
映像は長谷川きよし「黒の舟唄」
久々にYouTubeにアップ。
1980年、海運不景気の時代、将来の当てもなく、卒業研修のため、帆船日本丸で太平洋を遠洋航海した実習生たちの記録映画で、マイ・フェバリット。
蜷川幸雄の演出とベテラン俳優たちが本物の実習生たちの生き様に味付けされている。
海よ おまえは 覚えているか
若い 舟乗りの 夢の行方を
海よ おまえは 覚えているか
そして 帰らない 小舟の数を
急に暖かくなり始め、外出時の着るものに迷うこの頃、薄手のジャンパーの胸ポケットにゆうちょ銀行の通帳を入れ、出かけたところ、あちこち歩き回る打ちに、通帳を落としたよう。
肝心の郵便局に着いた時にその事に気がつき、とりもなおさず、窓口で通帳の紛失届を出して、使用出来ないようにロックをかけ、翌日の今日、必要なものを揃えて、通帳再発行の手続きをしに、また郵便局に行き、青色申告をやっている都合、記帳されている記録の写しを貰えないか、聴いてみると、通常貯金の入出金照会は1回答につき、500円の手数料が取られるらしい。
ネット銀行などでは、オンラインで通常貯金の入出金照会は無料で情報提供してくれるのに、ゆうちょ銀行はそんなサービスはなく、しっかり事務経費として出されている。
まぁ、こんなニーズはあまりないだろうけど、オンラインの入出金照会くらいはつけて欲しいよね。
今のところ、未記帳分の入出金照会は表示されているけれど。
春のクラシックレース、皐月賞、金曜日に遊びに行った友達の予想通りに買っていれば、当たっていたのに。。。
身近な人の話より、予想サイトを信頼してしまう。
教訓その壱
と、日記には書いておこう。
明日でうちの職場にて長年勤められたお二方のおばさまが65歳の雇用止めとなり、おやめになる。
連日の送別会の話は伝え聞かされていたので、このまま、お顔をあわせることなく、お別れかなと思っていたところ、お二方を慕う方から、最終日、飲みに行かないかとお誘いの電話があった。
お二方の最終日、居酒屋にて、同じ職場でしわをつくった者同士、面付きあせての「しあわせ」談義が出来そう。
出逢いは別れで、別れは出会い。
この「しあわせ」を大切にしたい。
職場のおばさま方の間で、携帯の待ち受け画面に「赤富士」を設定するのが流行っているらしく、見せて貰った「赤富士」は近代西洋画のものだった。
縁起よく開運祈願とされているけれど、やはり僕は 葛飾北斎の「富嶽三十六景」の一枚、「凱風快晴」
忘れ去られた日本の景色がここにある。
望む勤務形態の募集を見つけ、応募、面接に行ったけれど、どうもそこの雰囲気に馴染めず、面接された方もそうと感じたのか、不採用になっちゃった。
今回募集していた仕事は週三からOKのアルバイトで、雇用保険もつくというものだったけれど、本社が出した募集要項とは違い、支社では通常業務のアルバイトを求めている感じがした。
障害者雇用としての募集だったけれど、どうも通院などで勤務できない事情を認める募集のような話しぶりだった。
職場雰囲気もどうも馴染めそうになく、雇用形態も後々食い違いが起こりそうだったので、不採用の手紙を頂き、よかったと思うけど、パートに対する雇用保険の拡大や障害者雇用の促進など法整備が整ってきているご時世なのだから、毎日の勤務は体力的に無理な障害者、高齢者のパート労働の斡旋なんてもっと行われてもいいような気がする。
行政主体のハローワークが障害者を雇用する企業助成を行う窓口なのに、未だに正規社員のみの募集案件だけで、パート、アルバイトでの障害者雇用の窓口になっていないのも、ネックになっているような気もする。
労働人口減少が加速し、雇用形態も変わっていく時、福祉を一手に引き受ける日本独自の行政福祉のあり方はもっと議論されるべきじゃないだろうか。
機会均等でますます相性合う仕事を捜すのが大変になってきている気もしますし。
♪甲板整列文句をいわれ/いわれた揚句にドヤされて/ケツが黒くてバスにも行けず/親が見たなら泣くだろう
日本国の軍隊体験者であり、後に映画評論家となる斎藤龍鳳氏の遺稿集、『なにが粋かよ』の第一章「私の戦後史」にこんな歌が軍隊で流行ったと書かれており、その後にこの歌の説明が以下のように記されている。
「こんな歌が、よく少年たちの口の端にのぼりました。バスは風呂です。親が見たならで調子が落ちますが、十七、ハの小僧の歌です。でも″ケツが黒くて″には万感の想いがこめられています。バッタでなぐられて起こす内出血を指しているんです。ズキンとくる樫のバッタ。ピシリッとくる柳のバッタ。野球のバットなどは三人もなぐっとら折れました。ひどいのはストッパーでした。直径十センチほどのマニラロープで先端に鉄の環のはまったものさえありました。これを二十分ほど海水に潰けておくと、殴るころあいな堅さになるのです。こいつは衝撃がありました。人体背面に痛みをあたえるばかりか、精神まで荒廃しました。隊とか艦によって兵の扱いは差がありましたし、いちがいに論じると事実誤認を指摘されそうですが、総じて設備の劣悪なところほど制裁で補おうとしたようです。下級水兵は老朽大艦への転勤をひどく恐れたものです。ともかく帝国海軍にも内乱はおきませんでした。」
僕の養父も日本国の軍隊体験者であり、志願兵であったので、似たような話は子供の頃によく聴かされた。
敗戦後、いじめにいじめ抜いて、上官ヅラしていた連中は報復を怖れ、指揮命令も放り出し、いち早く軍隊を逃げ出し、故郷に帰り、一番下っ端の二等兵たちは故郷に帰りたくても、金はなく、軍があった街で、炭焼きをし、飢えをしのぎ、やっとの思いで故郷に帰ったらしい。
軍隊の皇軍教育は去勢しない去勢といわれるくらいにいじめ抜き、反逆心を喪失させたらしく、斎藤龍鳳の著書でも敗戦を知った時、「これで殴られないですむ」という開放感を感じたという。
生き残った者たちは闇市のどさくさ、生きるのに必死になれはしたけど、僕の伯父たちは沖縄や南海の島々で亡くなり、遺骨も回収されないままとなり、その悲惨な戦争は後々、遺族である伯母たちに語り聴かされはするけれど、夫との間に出来た幼子を抱え、生還を待ち望んだ敗戦当時は遺骨ひとつなく、白紙一枚の白木の箱が届けられ、「名誉の戦死」による恩給という名の生活費と引き替えに、靖国に神として祀られた。
「餓島」「墓島」の死の皇軍で伯父は死に、伯母は闇の時代、子供を抱え、飢えと闘った。
今、忘れ去られていく戦争体験の話、美辞麗句にすまそうとする世相の「なにが粋かよ」。
幼児虐待、老人虐待、リストラ虐待、戦時中と何も変わらないこれらの陰湿さがこの国の本質とは思いたくはない。
♪母の寝床で 小さな手で/さわったところに 毛があった/かあさん、これは何ですか/坊や、これこれ何をいう/ここはお前の故郷だ
いつの世も十七、ハの小僧たちは心の故郷を求めている。
人気投票の通りには事収まらなかった桜花賞。
3単連は700万、3連複は77万。
買っていれば、今頃はとあさき夢見し、咲いた花なら散るのが覚悟。
遺骨のない神社の風化止めに一役買ったドキュメントの話題なんぞより遙かに刺激的。
海ゆかば、散りゆく屍、山ゆかば、草むす屍
犬死にせし者、散った桜を語るのが供養というもの。
モンゴリアンの国家呪縛は人気投票の通りには事収まらなかった桜花賞のように下克上こそわが祖国と思い馳せなきゃいかんだろうに。
パチンコ、パチンコで半年暮らし、後の半年、寝て暮らす
この世の極楽とは極道にこそあるのかも。(笑)
新年度に入り、新しい生活を始める為の下準備に追われ、何かとバタバタしているところ。
今日は職場の待遇と施設の改善の申し入れもあり、これでやっと落ち着けるかな。
仕事の帰り、いつも帰りが遅くなると夕食を済ませる職場近くの地下街のお店に行くと、店長が「これね」と張り紙を指さす。
見ると明日で店じまいをするお知らせで、日曜の帰りにはいつも利用する身としてはびっくりした。
地下街オープン時からを自慢に、今は地下街も地元の店なんか一軒もないとこぼしていたその店屋が明日なくなる。
天丼と豚丼がメインのこのお店も中国、台湾、韓国からの観光客をもうまく取り込み、いつも混んでいたのに、やはり時代の流れなんだろうか。
札幌中心部の観光収入も春先になって思わしくないと云う話も聴くし、これから夏場の洞爺湖サミットを前に、札幌都心部がシャッター通りに化さなければいいけれど。
商売の為に一生懸命覚えた中国、台湾、韓国の話題で観光客に愛そう振りまいていた親父さんのお店が明日閉まる。
春らしい日差しの昨日。ここ半年続けていたレンタルビデオ屋巡りも終盤、札幌市内歩き回ってしまい、歩き疲れた。
札幌の東側に位置する南郷18丁目近辺の自宅から、地下鉄で札幌の北に位置する新琴似のビデオ屋に借りたビデオを返しに行き、そこから札幌の西側に位置する琴似のビデオ屋に効率的に市内の路線バスを使い、行こうとしたけど、バスの運行ダイヤが一時間に一本なので、地下鉄で街中に向かい、大通りの西11丁目にあるビデオ屋にビデオを返して、琴似へ行く。
その足で、琴似からバスが出ている西野のビデオ屋に物色に行き、帰り、二十四軒のビデオ屋ものぞいてみる。
真冬の寒い人は違い、天気がいいと身体を動かしたくなるし、DVDからブルーレイへの流れが決まり、急速に始まったビデオテープの整理で、見られなくなるビデオを捜すのも、ほとんどお目当てを見つけ出し、最終チェックともなると余計歩き回ってしまう。
「Sapporo ekibus navi -札幌周辺公共交通案内-」なんて活用したりして。
ここまで根詰めて、映画ビデオを捜せるのは根っから映画が好きなのだろうと自分でも思うし、他は貧しくとも一点豪華のブルジョワ志向で別にいいと思う。
この先、例え、探し回って見つけたビデオテープが、DVD、ブルーレイで出されたとしても、それはそれであって、今、観たいビデオを探し歩く事が自分の満足なのだろうし。
好きな事に一心不乱になり、気がつけば、懐具合が先行き不安になったとしても、一心不乱になった自己満足で満たされていれば、歩き疲れても悔いはないはず。
レンタルビデオあさりも一段落ついて、さて、この後、何をやろうかと思い巡らす自分は、やっぱり根っからの風来坊なのかも知れない。
高田渡さんの『生活の柄』を聴きたくなり、Youtubeを検索してもみる。
今週末は職場上司のお歴々たちと親睦会役員の新年度顔合わせのお食事会でした。
普段、雑談を交わす事もない職場上司たちの会話をお聴きしながら、職場上司が売り上げ低迷で、機構改革真っ直中のこの部署をどう変えていきたいのか、数日経って、何となく見えてきたような気がする。
飲み会での雑談だから、軽く流しつつも語ってはいたものの、内容はこの部署に関わり、他の部署に異動された方達とどう連携をとり、この部署を維持させる方向に向けるかの作戦会議のようであったのだろう。
部署を管理されている方達の生き残り戦術を聴かされ、その部署内にいる立場として、部署内の諸問題を聴いて頂こうとしていた自分の軽薄さを反省したりもする。
自分だけ手柄を立てて、生き残ろうとし、職場内のチームワークを軽視する輩たちの言動が気に障りだして来ており、現場に出て、接客を行うアルバイト学生たちからも不満が出始めているため、大岡裁きを求めようと思ったのだけど、時代はそんな姑息な連中でひっくり返る次元を過ぎて、この部署の存亡を問われているのだと改めて再認識もした。
売り場の方の役員たちに付き合い、二軒目に流れ、そちらの現場の問題を聴かされもしたけれど、職場上司たちの見えない敵との格闘に比べれば、仲間内の見える敵の問題はまだまだ甘さがあるのかも知れない。
現場での点数稼ぎが諸問題を引き起こした時代と今はやはり時代が違うのだろう。
野放しにした諸問題が手に負えない化け物になったのかも知れないけれど。
ベルトルト・ブレヒト詩篇より
一日闘う者がいる。良い人間だ。
一年闘う者がいる。より良い人間だ。
何年も闘う者がいる。とても良い人間だ。
一生闘う者がいる。不可欠な人間だおお、おお、おお
一匹殺せばもっと大きいのが出て来る。
おお、おお、おお
もっと大きな地獄を消化しながら。シルビオ・ロドリゲス『蛇を夢見て』
世界各地でマーケットを展開するAmazonにアソシエイトという紹介報酬のプログラムがありまして、日本のみならず、アメリカ、イギリス、カナダ、フランス、ドイツのそれぞれのアソシエイトに登録したのが、2005年の夏。
自分のサイトにリンクを張り、紹介報酬をAmazonギフトにせずに小切手支払いの指定にして、待つ事、3年。支払い最低額の条件である100ドルを突破したのが、この前で、ちょうど円高のニュースが流れはじめた頃。
職場でGoogleのアドセンスをしている人から円高で換金されてもなぁというぼやきを聴かされ、Amazon.comの支払いを小切手郵送から、Amazonギフトに切り替えたけれど、時期遅かったようで、昨日、生まれて初めて手にする100ドルの小切手が届きました。
けれども、安易な浅はかさ、換金する術で結構な手数料が取れられる事をネット検索で知り、相変わらず手数料でも暴利を貪る高利貸しの銀行さんより、換金業者の方が良心的な手数料と知り、さっそく、業者のサイトより問い合わせしたところ、親切な返信を頂き、利用登録したところ。
業者よりのメールによると、旅行会社を顧客に持ち、少額小切手を受け取るのが観光関連業界に限られていたので、法人相手に小切手換金代行業をやってこられたそうで、昨今、個人のニーズも増えてきている為、ネットを通して、個人向けにも小切手換金代行を始められたと書かれていました。
長い注意書きの後に添えられていたひと言は確かにねと思ってしまった。
「1ドルでも多く、ニッポンに還元させるためにお手伝いできれば幸いです。」
金余りでジャパン・マネーが出ていくのを気にしないのに、外貨を有効に活用しようとしない贅沢体質はジャパン・マネーを目減りさせるだけだろう。
ネットで個人でも外貨が獲得出来る環境になったのに、高い手数料や煩わしい手間で無駄に外貨を失うこの国のシステムの未熟さはとても国際化したとは云えないのじゃないだろうか。
国益の為に、外貨獲得に必死になったのは、何も戦前の話ではなく、現在の日本でも日本への投資を募ってもいる。
企業重視、個人軽視の政策の見直し、こんなところにもあるのじゃないか。
「愛国論」が好きな方なら諸外国に見習い、外資系企業の利用による円の海外流出を抑え、外貨小切手を期限内に換金する事に熱心になって貰いたい。
貨幣経済学を論じるまでもなく、国を富ますのは自国貨幣の保護、維持にあり、地域の安定経済が、国家資産にもなるのだから。世界の基軸通貨として、米ドルが躍進した70年代ドル・ショックもその一例だろうし。
それにしても、日本国内の紹介報酬率は低すぎる。同じAmazonアソシエイトを例にとっても、欧米に比べ、利率が低すぎるし、他のアフィリエイトでも同じ事が云える。
欧米の企業がその利益の社会還元を行う事で、豊かな市場維持を計る社会貢献の意識を、日本市場も見習って貰いたいものである。
雨が降るでもなく、青空が顔を出すでもなく、冷たい風が吹き続ける嫌な天気がまだ続いている。
四月馬鹿でひいた風邪は養生したお陰で、だいぶ楽にはなったけど、気持ちが滅入りそうなこの天気で、風邪がぶり返しそう。
人間は神経で生きているのだなぁと実感しますね。
その神経を逆なでする他人はくずつき模様と同じく自然であるわけで、スパイラルに悪くなるか、スパイラルによくなるかは気の持ちようで、生活環境も変わるのでしょう。
♪空にさえずる 鳥の声
峯より落つる 滝の音
大波小波 とうとうと
響き絶やせぬ 海の音
聞けや人々 面白き
この天然の 音楽を
調べ自在に 弾きたもう
神の御手の 尊しや♪武島羽衣作詞「美しき天然」より
政局と同じく、このところの寒暖の差の激しさにとうとう身体がついていけず、風邪をひいたみたい。
本調子に戻るまでご自愛します。
今週末の仕事に差し支えも困るしね。
早く寒暖の差の少ない安定した天気になって欲しいね。