2008-05-30

おそいひと Osoi hito

CP者(脳性麻痺者)としてどのような内容なのか、気になっていた映画『おそいひと』を観てきた。

上映前、上映館の発行しているリーフレットに書かれてある「当たりまえなことだが障がい者がみんな『人格者』であろうはずがない」という記載を議論するお客の話が聞こえ、やはり館主さんの紹介文は議論になるのだなぁとほくそ笑み、相対論的な『人格者』などどうでもよいと思うワタクシは久々の劇場鑑賞に映画以外の「ノイズ」が聞こえてくる面白さをまずは堪能した。

映画『おそいひと』は公式サイト主演者のサイトでも書かれているように、前半のドキュメントぽい描写はユーモアもあり、住田さんの酒好き、女好きの生活ぶりがみずみずしく感じられ、助言される福永年久さんの言葉の重みなどもずっしりされていた。

関西の障がい者解放運動は雑誌『そよ風のように街に出よう』でよく知っていたので、性の問題の描写なんかは障がい者の性を赤裸々に綴った『ラブ』『私は女』を思い出しもした。

介護の女子大生・敦子が「普通に生まれたかった?」と聴くと「殺すぞ」とボイスマシーンで返答する住田さん。

だんだん敦子に夢中になる住田さんに「全部、受け入れるな。身体が参って、寝たきりになるぞ」と忠告する福永さん。

映画はドキュメントからドラマにダイナミックに移る時、障がい者解放運動の生みの親である横塚晃一さんのドキュメント映画『さようならCP』を思い出し始めた。

「見られる」立場の障がい者がカメラを構え、「見る」側に立とうとする時、「見られる」コンプレックスに押し潰される事を描いた映画『さようならCP』同様、敦子の反撃はビデオを回して、住田さんを襲う。

「障がい者だって、同じやろ!」と叫ぶ敦子への逆襲は敦子にではなく、社会に向かい、通り魔殺人となっていく。

鬱屈した殺人動機は、横塚晃一さんが解放運動を始めた横浜の障害児殺人事件で、同情の余地ありと無罪放免された母に対し、「母よ!殺すな!」と抗議活動はじめ、「障害者殺しの思想」を提示していったものの裏返しのように思われ、どんな状況にあるにせよ、殺人は罪とするエンディングまで緊張を引っ張っていく。

「障がい者だって、同じやろ!」は「健常者だって、同じやろ!」だろう。

障害者だけの劇団「態変」のエキストラとしても活躍されたという住田さんはおそらくそこまで思っているだろう。

完成した時、東京の映画祭でプレミア上映されたけど、「障害者に対する偏見や誤解を与える」、「差別を助長する」といった様々な批判が集中し、世界各国での高い評価の後、凱旋興業と相成ったこの映画で、生身の障がい者を知るきっかけになればいいですね。

『人格者』ではないワタクシはひとつ年上の住田さんと自分の障がいを見比べ、身体障がいといっても身体の不自由さは違うのねと、人体の神秘を観察してしまったけれど。

  • OhmyNews : 障がい者だって、健常者だって、同じやろ!

2008-05-29

雨降り五月、僕らはみんな生きている。 We are all alive in rainy May.

週末の仕事の他に、平日も障がいあるなし関係なく共生、共働していくをスローガンとする職場に勤め始め、慌ただしいこの頃。

特に今週は、週末の仕事の職場仲間の親睦、慰労のリクレーションが火曜日にあり、平日の仕事の方で休み頂いて、リクレーションに参加したのだけれど、小雨の四月の帳尻あわせか、寒暖の差が激しく、雨降り五月を象徴するような最悪の天候。それでも余市のウィスキー工場、小樽の水族館を日帰りで行ってきた。

職場仲間も寒さを吹き飛ばそうと歌い、踊り、行く先々で、飲み食い三昧して、「楽しまなきゃ損」とばかりに楽しんだ。

翌水曜日はやはり週末の職場で待遇改善の申し入れに対する回答があり、またまた平日の仕事を早退しての参加。

売り上げ低迷で、厳しい状況下、出来る配慮、出来ない配慮が回答されはしたけれど、気配り感じられる回答を頂き、少し感涙してしまった。

回答を聴く前に昨年定年退職された方が交通事故に遭われた報が入り、気が滅入っていただけになおのこと、有り難く思ったのかも知れない。

今週末は平日の職場の総会があり、どう共生、共働していくかの討議がなされるそうなのだけど、生きてる有り難みを体現することこそ、「生きる」なんだろう。

人は自分の弁護のために他人を裁きたがる。けれども、自分たちが生きる輝きを見せなければ、他人を裁く事は意味なさない。

雨降り五月、僕らはみんな生きている。

生きてる証とは相対する人の笑顔なのかも知れない。

  • OhmyNews : 雨降り五月、僕らはみんな生きている。

2008-05-26

死ななかった英雄たちのお孫さんの会 Associations of grandchildren of heroes who did not die

戦犯論議をmixiはお好きなようで。

日本遺族会がスポンサーなのかな?(笑)

予科練の生き残りの方の本を読むと生き残った者同士が「何故死ななかった」のののしりあいを繰り広げた敗戦闇市時代。

東京裁判で戦犯に決まると「死ななかった英雄」は「潔く死んでいった」に言い換えられ、御霊は祀られた。

だから、恩給補償しろ、英霊を忘れるな、靖国に祀れ、と遺族会の「死んだ先祖」の偉業で生活する国家プロジェクトが組まれ始める。

死なずに生き残った一兵卒の子供たちは今や、ずさんな年金記録管理に、後期高齢健康保険と補償なしのたかられ人生。

生まれてくる家を選べるならば日本遺族会の孫に生まれたかった。(笑)

今週は貧乏暇なし、過密スケジュール。地球同様、オーバーヒート。

死ななかった英雄たちのお孫さんたちはどこ吹く風の極楽とんぼで、A級戦犯「東郷神社に分祀を」と更なる借金案を提示する。

「国民総玉砕」の悲願、おそらく死ななかった英雄たちのお孫さんが叶えてくれるのだろう。

姥棄て、子供地獄、奴婢訓の日の本日本、朝日楼、ばんざい。

2008-05-23

人は皆ひとりぼっちで、神はそれを救わない Jeder für sich und Gott gegen alle

マイ・フェバリット・ムービー『カスパー・ハウザーの謎』の原題。

納屋の中で育った実在の野生児カスパー・ハウザーは納屋から人間世界の中に放り込まれ、「教育」を受ける。

「地下牢の生活はどうでしたか?」
「外よりましでした。」

「なぜ教会から出て行くんだ?」
「合唱隊が喚き散らし、その後、司祭が大声をあげるので恐ろしくなった。」

「人は狼ですよね?」

「夢の中で人々は山を登っていました。その頂上には死に神が待ってました。」

「教育」を受けたカスパーは撲殺される。

人は皆ひとりぼっちで、神はそれを救わない

2008-05-20

雨にも負けて、風にも負けた It was defeated at rain, and it was defeated at the wind.

猛烈に発達した低気圧の接近で、札幌も朝から雨風強く、傘も用がなさないほどの悪天候の一日だった。

昔もこんな日があったのかも知れないけれど、忘れっぽい日本人、この頃、急速に普及し始めている高層ビルによるビル風も更に雨風を強くしているように思えてならない。

うちの近所にも交差点の角地に、10階程度のマンションが出来てから、その建物の下を通る度に、風に煽られ、雨の日などは傘を壊される頻度が多くなった。

今日の雨風はその煽り風が激しく、職場の女の子が、銀行に使いに出かけ、帰ってきた時には、風に煽られ、傘の骨が壊されて、びしょ濡れで帰ってきたりもしていた。

所長が壊れた傘を見て、「500円のビニール傘なら、投げてもかまわないけど、靴の修理屋さんに持っていけば、直して、また使えるよ」と物を大切にする50代の生活の知恵を披露したりもしていた。

仕事後、幸い、風も収まり、帰宅途中、職場そばの地下鉄駅に降りていって、ちょっとカルチャーショックを受ける光景に出くわし、思わず携帯のカメラで写真を撮った。

地下鉄駅に降りていく階段の踊り場、地下道通路に投げられたビニール傘。

誰かが片づけるだろうと棄てられたビニール傘は雨にも負けて、風にも負けた人間たちの腹いせのように見えてしまった。

階段の踊り場に投げられた傘
階段の踊り場に投げられた傘

  • OhmyNews : 雨にも負けて、風にも負けたビニール傘

2008-05-18

子供たちは社会の鏡 Children are the reflection of a societys.

子供の携帯所持を禁じる提言が話題になりつつあるけれど、携帯が出始めた頃、自由がなくなると反対した国民はいまや命より大切な物が「携帯」と云うまでなってしまった。

携帯に遊ばれている大人が子供にばかり「いけません」はないわな。

同じ事はゲームにも云えるだろうし、大衆のニーズを商品化していく企業にこそ社会的リスクを負わすべきなのにそれをしないで一番抵抗しない者たちを縛り付ける。

一見、理にかなっているように見えるけれども、一番大切な制御を失うのは大人たち。

少子高齢の時代だから、すぐにファシスト化されやすいだろうしね。

携帯を禁じるなら、すべての携帯の販売を禁じなきゃ、意味はない。

禁酒法時代の愚考が繰り返され、暗闇の子供たちは増えていくでしょう。

子の心、親知らずのガキデカ時代なのだろうね。

身近な若者たちが子供の頃は「携帯」がなくても生活してたんだよなと、今の「携帯」なしでは生きていけない我が身を振り返る会話を耳にする度、機械仕掛けの時代になったと思うのだけど。

  • OhmyNews : 子供たちは社会の鏡

2008-05-14

無知の涙 Tears of ignorance

「無知の涙」は死刑囚永山則夫の手記のタイトルだけど、無知は犯罪のみを引き起こす物ではない事を職場の人の会話で知った。

それは飢餓に襲われた時、人は飢えて死ぬのではなく、食べられる野草かどうかを判らずに無闇に口にし、空腹を癒そうとし、食べてはいけない野草を口にして死ぬという話。

満たされた時、哀れみや奢り、虚栄は周りに対し、無関心となり、無知になるらしい。

長所だけを是認する上で好きになる事が「敬う」で、否定されてしかるべき部分まで含め、容認する事が「惚れる」事だと物の本に書かれていたけど、「敬う」危うさは結局自分を殺すのだろう。

あでやかな物ほど、毒を持つ自然界の摂理は、自分の自衛本能がまともに機能しているか、試すバロメーターにもなるだろうし。

無知の涙を流し、いまわの際を迎えたくない物である。

  • OhmyNews : 無知の涙

2008-05-12

ニュー・ライフ New life

今日から新しい生活が始まり、生活のリズムが変わり始めた。
慣れるまで身体の調子を狂わせないようにしなければ。

とは云っても、天候は肌寒さが続く気候不順だし、やり残しも溜まってくる。

時流に押し流されずに、時の流れに身を任す。

これがなかなか至難の業なのだろうなと思いながらも、新生活を歩み出した安堵が心の支えにもなっている。

ゆとりの大切さこそが幸福なのだろう。

2008-05-10

散る桜、残る桜も、散る桜 Cherry blossoms that also scatter also remaining cherry blossoms

冷え込みの中、散らずに咲く桜

このところの寒暖の差は身体に応える。

予科練生き残りの斎藤龍鳳氏の『なにが粋かよ』に綴られた生き残りたちの戦後の話を読むと、この国の「桜」の狂い咲きの重みがよく判る。

戦況苦しくなり、軍事教育もなされずに死を命じられた若者たちは映画などで描かれるような綺麗事ではなく、今のいじめにあう若者たちのようにあきらめの境地で「戦い」に挑んだという。

17,8の若者が考える「死」と「生」

見事に散ったと社に祀られる「死者」の影で、ひっそり同窓会が行われた予科練生き残りの中には飛行士から足洗えずに航空会社のパイロットになられた方も多くいるという。

散らなかった「桜」たちは騒ぐだけのマスコミを嫌い、同窓便りで自分たちのあの時を振り返る。

1943年8月の兵隊と1943年10月の兵隊の違いを誰も今は問題にしないと、生き残った龍鳳さんはこだわる。

「散る桜、残る桜も、散る桜」と戦時中云われたニヒリズムとはまったく別な楽天主義で、予科練生活を送り、戦後を生きた人たち。

予科練は私に「少年こそ日本を救えると思いこませた」唯一のものと語り、戦後、入党した日共が「青年こそ日本を担う」と思いこせ、その双極の幻想の中、育ち、成長したと振り返る龍鳳さん。

原稿締め切りの時、普通なら「がんばれ!」というところを「ほら、慌てろ、慌てろ」と自分を囃す龍鳳さんの物の見方にもの凄く惹かれもするし、ブルジョワ、プロレタリアの対立軸に持っていく論理に古さを感じもする。

「逃げていった大人たち」に騙されるなという姿勢はおそらくこのところの寒暖の差の中、散らずに咲く桜のように1960年代、忘れっぽい日本人に「あの時」を伝え続けたのだろう。

桜の森の満開の下、戦火で荒廃し、気候不順の中、飢餓に苦しみ、疫病と闘い、生き抜いた「桜」を思う。

  • OhmyNews : 予科練生き残りの方たちの戦後史を読み返す

2008-05-08

目に見えるものだけが、見えるものではない The visible one alone is not the seen one.

鮫肌男と桃尻女』『茶の味』の石井克人監督が、草なぎ剛、加瀬亮、マイコという人気俳優で、日本映画の忘れられた巨匠、清水宏の戦前作『按摩と女』のリメーク作品、『山のあなた 徳市の恋』がまもなく公開される。

これをきっかけに、日本映画の老舗のひとつ、松竹が重い腰を上げ、清水宏が松竹時代に作った作品をDVD化し始め、セルオンリーではなく、レンタルでも供給してくれ、街のレンタルショップではなかなか出回らないだろうけど、ネットレンタルで借りて観る事が出来る。

松竹時代の清水宏作品は1990年代のバブル期に、創業100年の企画として、戦前の名作群がデジタル修復され、ビデオ化されており、レンタルショップで借りて観た『有りがたうさん』(1936)を僕自身、以前紹介した事もある。

世界でも評価高い溝口健二、小津安二郎にして、「清水は天才」と言わしめたほど、その作風は自由に満ちあふれており、今回発売された『有りがたうさん』、『簪(かんざし)』(1941)、それに『山のあなた 徳市の恋』のオリジナル、『按摩と女』(1938)は伊豆の山奥の豊かな自然を背景にした作品たちで、せわしない今の時代が忘れてしまった日本人のウィットに富んだ本当の豊かさが描かれている。

清水宏は役者に芝居させる事をせずに、普通に喋らせる実写主義者としても有名で、狭いセットでの撮影よりオールロケーションを好んだようで、それ故に芝居したがる大人よりのびのび振る舞う子供たちを描くのを得意ともしていた。

今回、未見だった『按摩と女』をネットレンタルで借りて観たが、モノクロなのに、映し出される山道は緑にあふれんばかりに撮され、川辺は透き通った水の流れが新鮮に撮されていた。

「湯治もの」といわれる『簪(かんざし)』、『按摩と女』は本当にどうでもいい話なのだけれど、そのどうでもいい話こそ生きる上で大切なのだと感じさせてくれる。

清水宏は戦争を挟んで、子供たちを撮り続け、児童文学を映画化した『風の中の子供』(1937)、『子供の四季』(1939)の後、家庭環境に恵まれない子供たちの更正を描いた『みかへりの塔』(1941)、戦災孤児の『蜂の巣の子供たち』(1948)、小児麻痺の『しいのみ学園』(1955)と世に送り出した。

戦争中も戦後も一貫して子供たちの社会復帰を描いたその姿勢は、清水宏にとって戦争はなんだったのかを問う疑問の声が出されもするけれど、1959年に撮った『何故彼女等はそうなったか』では、不良少女たちがある者は身重になり、段差ある塀の上から何度も飛び降り、堕胎しようとする姿を延々と見せたり、身売りされた街で修学旅行に来た同級生たちから逃げるように置屋に戻る女の子を撮していた。

『何故彼女等はそうなったか』も日本映画専門チャンネルで6月に放送されるようでもある

ありのままの人々を撮す事の意味を清水宏は熟知していたのだろう。

山のあなた 徳市の恋』の予告を観ると、『按摩と女』ではけしてアップにはならなかった場面がアップとして撮られており、観る者の視界の自由を尊重した清水宏と見せるものを特定した石井克人の軍配は見えた気もするけれど、かつての日本の巨匠を知ろうとするその意気込みは評価したい気もする。

松竹ではこれを機に日本文化の遺産の数々をセル・アンド・レンタルで発売するようなのそれも期待したいところである。

ラインナップを簡単に紹介すると、小津安二郎が戦前、子供の目から観た人の不平等を描いた『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932)、映画黎明の試行錯誤が見て取れる『隣りの八重ちゃん』(1934)、敗戦後、財閥解体で没落する華族と成り上がる使用人を描いた『安城家の舞踏會』(1947)、戦争後遺症を描いた『本日休診』(1952)がまずは復刻されるらしい。

世情に背を向け、山辺に向かうと、普段見えなくなっている物が見えてくる。

それは失われた日本の美しさであり、環境破壊された今の世の中なのだろう。

2008-05-06

ばらまき福祉から From the distribution welfare

新聞を取っていないので、広報を見て、札幌市の障がい者交通費助成制度の見直し案が出ているのを知った。

現在、障がい等級、障がい種別によって「きめ細かく」定められていたものが、「見直しする理由」にて、「障がいの種別や等級によって助成内容が異なり、制度を複雑にしているばかりでなく、不公平感がある」として、「3障がい共通の制度として再構築し、分かりやすい仕組みにする」としている。

改定案では重度の障がいを持った人たちがチケットがなくなったら取りに行かなければならない肉体的労力を軽減させるべく提供されている「福祉乗車券」を廃止して、軽度障がいと同じくチケットを貰いに行くように代わり、公共交通機関の利用が困難という理由から支給されていたはずのタクシー券・ガソリン券を「等級の低い方も選択できるようにする」らしい。

また、公共交通機関の平均的な利用回数が週3回程度という利用状況のアンケートから、その外出に要する交通費の半分程度の利用額を支給するとされている。

つまりは今まで利用実績に関係なしに交通費が支給されていたのを市の財政が厳しくなったから、利用状況のアンケートを取ったとも読めるわけで、障がい者の実態を把握するはずの障がい福祉課のずさんな支給のばらまきがあったから、市の財政が厳しくなったと見る事は出来るのではないだろうか。

「利用者の増加に伴い」とされているけれども、何故、利用者が増加したのか、今後、利用者の増加はどうなのかが示されないまま、財政圧迫のみを訴えているようにしか思えない。

問題なのは、重度障がいの方々に提供されている「福祉乗車券」が利用見込みとして一律に交通機関に支払われる金額であるのだろうから、重度障がいの方々の移動頻度を調査し、「福祉乗車券」の単価の見直しを交通機関とするべきなのに、利用者側の問題にすり替えてしまっていないだろうか?

現行の支給額にしても福祉割引ウィズユーカードが年に264,000円とあるけれども、月一回区役所福祉課で支給される時、使い切ったウィズユーカードの提示を求められ、貰える枚数は1000円券10枚1万円相当、一年26ヶ月あるなら別だけれど、どう計算しても12万円にしかならないはず。

「ご意見をお寄せください」として広報しているので、教えてあげた方がいいと思う。

弱者切り捨ての後は行政合理化が待っている事を。

  • OhmyNews : ばらまき福祉から

2008-05-02

小林多喜二 Takiji Kobayashi

昔、文筆の勉強をしていた頃に、書いたドラマのシナリオなどを見て貰い、アドバイスして頂いた方の年賀状に、二年の歳月をかけ、取り組んできたドキュメンタリー番組「いのちの記憶―小林多喜二・29年の人生」が放送されると書かれていたのを思いだし、ネットで検索してみた。

録画予約しておかなきゃ。

2008-05-01

温風 Warm air

気象観測開始以来最低とテレビで云っていた小雨の四月が終わり、予報通り、札幌は26℃を超える夏日となった。

しかし、週末より居座り続ける寒気が残っているせいか、朝は寒いくらいで、日中との気温差15度以上という体調管理が難しい日でもあった。

生暖かな南風も朝のうちは少し強く、冷気と混ざって、汗ばむほどの温風にもならなかったのが、薄曇りながら、昼過ぎには少し汗ばむ温風になったりしたものの、午後3時過ぎにはまた冷たい風が入り交じる。

何とも変な天気の一日だった。

帰宅後、27℃近くあったとテレビでやっていたけど、家で仕事していた母は大した暑く感じなかったと云っており、フェーン現象となったというオホーツク海側に比べると、実感には乏しく、このところ続く曇天のせいもあり、「夏」という感じはなかった。

でも、こんな温風によって気温が上がる天気が続き、朝晩との寒暖差が大きいと、体調が優れない人にとってはもっともきつい天候にもなるだろうし、現に、僕自身も疲れを感じている。

穏やかに四季が巡る日本の気候も、雨季と乾季の差が激しい南国の気候になっていくのだろうか。

いつになく早く咲き、散り始めた桜の花見客のマナー違反が、桜の寿命を縮めているニュースが流れ、この世の自然が無限であるかのように、甘え尽くす人間の愚かさが、この温風なのかもと思ったりする。

  • OhmyNews : 5月1日は何とも変な天気の1日だった