2009-03-15

青い鳥 Blue bird

映画『青い鳥』を観て、いいんだけど何かつかえるものがあり、図書館より借りて重松清の原作と読み比べてみた。

原作にはなくて映画にはあるものと、映画にはなくて原作にあるもの。それはいじめが起こり、一人の生徒が自殺未遂をして、転校していったある学校の一クラスにやってきた言葉がうまく喋れない代用教員という設定の物語の中で、微妙にニュアンスを変えていた。

「先生はどっ、どどどっ、どどどもります。でで…も、本気で、しゃべります。」

うまく喋れない先生はそうしゃべり、クラスの担任を受け持つようになり、「罰」を受けたクラスの子供たちと向き合う。

「誰かを嫌うのも、いじめになるんですか?」

「事件」の後、対処策として、学校側が生徒に命じた悩みの投書箱「青い鳥BOX」に投函されたひとつの問いかけが、この物語の語り部である園部君の気持ちを揺さぶり、指導部の先生とぶつかる。

「じゃあ、先生には、嫌いな人はいないんですか?生徒以外だったら?おとなの中で嫌いなひとって、いないんですか?」

子供たちは型どおりの回答のごまかしを見抜いているのに、指導部の先生は「屁理屈」として、その問い詰めをかわそうとする。

「みんな間違っている。けっ、けど、園部君は、いま、本気で言った。本気で言ったことは、本気で、きっききき聞かないと、だっ、だめなんだ。」

物語は何がいじめなのか、何が大切なのかの核心にこうして進んでいく。

映画では吃音の村内先生の登下校の話や教員たち、子供たちの親の話が枝付けされるけれども、原作は園部君の語りの中で進んでいく。

おとなから観た子供たちの世界と子供たちから観たおとなの世界、その違いのような気もする。

村内先生役の阿部寛の熱演と1961年生まれで東大出身の中西健二監督の初監督とは思えないような押さえたタッチの物語展開で、深く心に残る映画なのだけれど、おとなから観た子供たちの世界が勝っていたのじゃないだろうか?と、決定的に違うラストを読み終え、そう思う。

何がいじめなのか判らない子供たちと判った振りをしているおとなたち。その中におとなだけれども、言葉がうまく喋れない村内先生がいる事で見えてくる物がある。

事件の「反省文」の取り扱いについて、映画と原作はまるで違うのだけれども、僕は原作の方が好きだ。

何度でも言い直す、しゃべり直す機会が大切と思うから。

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