戦時中のベルリン・フィルの監督指揮者フルトヴェングラーが演奏指揮を終え、興奮状態にある時、ナチスのゲッペルス宣伝大臣が客席から握手を求め、それに応えて手を握りあう有名な瞬間、反ナチの愛国者フルトヴェングラーはナチズムに利用された。
創立125周年を迎えたベルリン・フィルの最も苦難な時代を記録したドキュメント映画「帝国オーケストラ」には、その場面もきちんと織り込まれていた。
映画はフルトヴェングラーの最も得意としたベートーヴェンの交響曲第五番「運命」第三楽章の不安定な旋律が繰り返し流され、第四楽章の歓喜の解放へと至る直前で終わってしまう暗示的な音楽の使われ方がなされ、政治が文化を支配した時代の今日性を強く映し出す。
ヒトラーが国民の支持の元、政権を握り、ベルリン・フィルは次第次第に政治利用されていく様が当時の楽団員たちの証言から明らかにされていくこの映画の中で、1934年にナチスが「退廃芸術家」と指名したヒンデミットの新作オペラ「画家マティス」のベルリン国立歌劇場での初演を禁じたことに抗議した事から始まるヒンデミット事件でナチスと対立したフルトヴェングラーは亡命という道を選ばずに、ベルリン・フィルの監督の座に留まる事により、ナチズム全体主義と闘おうとしたけれども、ユダヤ人排斥命令、世界にナチズムのナショナリズムを誇るベルリン・オリンピックでの演奏などベルリン・フィルに対するナチスの政治利用はエスカレートとしていく。
フルトヴェングラーはウィーン・フィルにて戦時中、交響曲「英雄」を指揮し、ヒトラー自決時にはフルトヴェングラー指揮によるワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」がベルリン市内に流されもしたが、「非ナチ化」裁判の無罪判決をうけ、戦後復帰公演では交響曲「運命」を演奏し、1951年、バイロイト音楽祭再開記念演奏会で交響曲「合唱」を指揮する。
そのフルトヴェングラーがベルリン・フィルの音楽監督の時、楽員の安全を守るため、どれほど尽力尽くしたか、映画は語られるが、ナチズムと生きた帝国オーケストラというレッテルも根強くあった事が示される。
元楽員たちは政治への無関心を語り、同じ楽員にいたナチス党員との関わりを語るけれども、ささやかな抵抗は圧倒的な大衆の集団的狂気の前には、意味を成さなかった。
純粋に国家を愛し、音楽を政治利用しようとするナチスに抵抗し続けたフルトヴェングラーも敗戦間際、身の危険を感じ、スイスに亡命せざる終えなく、残った楽員たちも生死の狭間をさまよった。
楽員の兵役免除を信じて貰えず、ソ連軍に殺された者、進駐してきたアメリカ軍に家を追われた者、日本に亡命し、生涯帰国が果たせなかった者。国を愛し、音楽を愛し、ベルリン・フィルを守ろうとした者たちの裏目続きの人生がこのオーケストラの歴史にはある。
晩年、フルトヴェングラーが書いた書籍に「音と言葉」というものがあるのを、この記事を書く上で調べていて、知った。
その中に最晩年書き残したという「偉大さはすべて単純である」というものがある事を知った。
単純であるが故に苦難な日々を過ごした人々、それは例えば日本における伊丹万作の戦時中に書かれたという「戦争中止を望む」でもあるのだろう。流された事への悔やみが大きいほどに払った代償はいつの世も大きいのだろう。
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