2010-10-13

教育とはなんだ The education is what.

「共働きで子どもを預けているのに危なくてしょうがない。ちゃんと見張ってほしい。役立たずの年寄りがごろごろしているんだから、そういうことをやらせればいい。年寄りは我々に食わしてもらってるんだから」

重松清編纂したインタビュー集「教育とはなんだ」の末尾、補習的な形で、文庫化に際し、加えられた「教育改革とはなんだ」の中で、大阪の池田小学校の事件の際、ラジオ番組に投稿された東京都民の声らしい。

日本の「教育とはなんだ」はこれに尽きるんじゃないの?「教育」に子育てを任せるしかない家庭環境に、地域の事件なのに学校の問題にすり替える世間、目上の人たちへの敬意の意識もなく、道具のように言い放つ子育て世代。

教育論とは、授業とは、学校とは、教育の隙間とは、教師とは、卒業後に待つものとは、多角的に教育の現場を探る授業を重松清と共に受ける形のこの本は、様々な教育現場の問題を提示する。

「ゆとり」の名の下に、教えられなくなった教科の問題、男女同権時代に生き残った「家庭科」秘話、特定の年代が極端に多いいびつな年齢構成をする教職員たちと「私たちの子どもの頃に比べれば」という時代錯誤を引きずる親御さん達、障がい者教育も蚊帳の外にしてしまった「普通学校」におけるアレルギー引きこもりなど病弱な子供達をサポート出来ない学校システム、「科学」はともかく、「文部」という古めかしい名称を冠する文部科学省だけではどうすることも出来ない縦割り管轄下にある子供達の生活様式の変化などなど。

それは「教育」が「学校」だけでなされるものという価値から来るからとする「教育改革」の真意とされる「生涯学習」への移行がうまくなされなかったお話に繋がる。

「education」は「伝える」意味であるのに、「教育」と訳された日本では、一番大切な「生きてきた」事を伝える場ではなく、「教え育てる」暗記術がメインとなってしまい、「判る」事が大切なこととされてしまったと幾人かの論者は語る。

「安易で浅薄な「わかる」よりも、もっと大切な「わからない」があるはずだ、と。「わからない」の尊さや魅力を知ることも、「教育」の大きな役目の一つなんだ、と。」

あとがきで重松清はこう結ぶ。

教壇に立つことにより、「わからない」を云えなくなる教師達のプレッシャーと「わかる」事を尊ばれ、「わからない」は禁句にされてしまう子供達は、「わからない」まま大人になり、親になったのじゃないだろうか。

子供達の中で転んだ友だちにどう手を貸せばいいのか「わからない」子が増えていると聴く。もしかしたら、転んだ隣人にどう手を貸せばいいのか「わからない」大人も増えているのかも知れない。

この本の初版の時、中学だった子達は今、大学生として、うちの職場にもアルバイトとして来ている。けれど、「教育論」は「今の子どもは」のまま。始めの聴くに堪えない子育て世代の大人の「教育」は語られない。「知らぬは末代の恥」なのにね。

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