恩師と慕っていた方の訃報を聴いた。
かれこれ30年前、映画のシナリオをまねごとながら書いていて、物になればと思っていた頃、その方と知り合い、お忙しい中、時間を割いて貰い、下手なシナリオ作品を読んで貰い、感想を頂いた。
物語は、足の不自由な男の子と仲良しの主人公が、足の不自由な男の子はそれを理由に同じ中学校に通えないと聴かされ、一緒にいたい一心から足の不自由な男の子に自転車を教え、廻りから反対されるというものだった。
その方は、廻りから反対される理由はそれぞれ違うと思うよと仰って下さり、僕はギブアップになってしまった。
その方はテレビディレクターという仕事をされていて、倉本聰さんと単発物のドラマを何本か作られ、賞も多く受けられた方だったけど、テレビ局を退いた後も表舞台に立つ事はなく、舞台演出やドキュメント制作を手がけられていた。
年賀状のやり取りもして頂き、ここ数年は夏に行われるご自身の絵の個展のご案内を頂きもしていた。
残念ながら、個展でもお逢いする事はなく、年一度のご挨拶だけで、訃報を聴く事になってしまった。
その方、守分寿男さんのテレビ作品は「うちのホンカン」シリーズがレンタルビデオで観られる程度で、よくお話を聞かして頂いた田中絹代さんの晩年の名作「りんりんと」「幻の町」などは観たくとも叶わない状態にある。
「お母さん、生きていてもいいの?」と実母に聴かれた倉本聰さんの、養老院に母を連れて行く息子の道行き話「りんりんと」と、老夫婦が若い頃、暮らした樺太の街の地図を書き記し、辿り着いた小樽の街で、幻の町を夢見る「幻の町」は老いて忘れられていく者たちへの哀歌を描いた名作で、僕も放送当時に観てはいるけど、また観たい作品。
その二作で童女のように演じた田中絹代さんの事を、守分さんは後に、単行本でも書き残している。
その単行本「さらば卓袱台 テレビドラマの風景」はテレビドラマで関わられた名優達の話が詰まったもので、舞台裏で想い出残るお話も綴られていた。
まだ公衆電話が当たり前の時代、人目はばからず電話に向かい号泣する女性の話は、今も覚えていて、人間が押し殺した感情を発露する場面は今は出逢わなくなったなぁと思いもした。
そんな些細な記憶を書きとどめた守分さんの個展は、初年度は「石仏」がテーマであり、二年目は「花」がテーマになっていた。
人間は人間がいるから絵になるのじゃない、その背景となる自然があるから絵になるんだよ。
そんな風に、僕に教えてくれたような気がして、こうしてひとり、故人を偲ぶ。
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花(あじさい)いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり時はたそがれ
母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
轔轔(りんりん)と私の乳母車を押せ赤い総(ふさ)のある天鵞絨(びろうど)の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知っている
この道は遠く遠くはてしない道(三好達治 詩集『測量船』から「乳母車」)
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