予告を観た時、何故、クリント・イーストウッドは1920年代に起こったゴードン・ノースコット事件を映画化しようとしたのか、気になっていたけど、先日、その映画「チェンジリング」を観てきた。
この映画の感想としては、知人のブログで「正義は勝つ的勧善懲悪で、世界大恐慌のあと、ヒトラーの台頭と第二次世界大戦に向かうこの時代を背景にしているのだから、何故このような事件が起こり、警察の腐敗が起こったのかが描かれれば面白い作品になったのに」と、物足りなさ気味な感想を書いていたのだけれども、それは僕が思った何故この題材を映画化したのだろうという疑問とクロスするようでいて、相反するような気もする。
行方不明になった我が子を必死に探す母と安易な解決を望む警察の確執が軸で、そのバックに残虐な犯罪があったとする構図で、何に対してこだわるのかに対し、クリント・イーストウッドは行方不明になった我が子を真剣に探さなかった警察に向けられており、例え、凶悪事件の犯人が裁かれ、死刑になったとしても、問題点は何も解決していないという事に絞られていっていると思う。
被害者遺族の感情が単なる復讐ではなく、我が子を帰せであると観るならば、この映画は立派に普遍的なテーマを背負っている。
世論が結局極刑に満足するやばさは、いつまた警察の安易な事件解決を許す事にもなりかねないという事をこの映画は語っているように思える。
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