日曜日に夕刊があったなら。そんな感覚で書かれた12編の小説たち。
だらしないのが嫌いで周りからチマ男と呼ばれる男とどうしても整理整頓が出来ないガサ子の恋愛ストーリー、「チマ男とガサ子」から始まり、恋人、夫婦、親子の物語が重松清ライクに展開される。
隣の席の奴はいつも書類がチョモランマ状態にうずたかいとか、オトタケさんの『五体不満足』をまねて、「浪人は不便だけど不幸じゃない」と友だちにファックスしたら、絶交されただとか、サンタの格好でバイトをしている主人公がダッコしたガキに「むなしくない?」と耳打ちされたとか、シニカルな描写を交えながらも、日曜日に夕刊があったなら的な目頭が熱くなる物語が繰り広げられる。
問題を抱える当人の語りではなく、例えば悩む我が子を抱える父親の語りで綴られる「さかあがりの神様」「後藤を待ちながら」「卒業ホームラン」などは第三者の視点だから、見えてくる本質もあるのだと教えられる。
いじめにあう息子と学生時代に同級生をいじめた父の「後藤を待ちながら」などはいじめた同級生、後藤君は息子に助言はするけど、父親とは再会しない。
「いじめられたら思い切り泣けばいい」
あまりにもストイックな助言もいじめた父だから理解出来る事もある。
第三者が世の中の出来事をどういう視点で捉えるのか、それは単純化された教科書的な視点で見落としがちになる落とし穴がある事を重松清「日曜日の夕刊」は書き綴っているように思う。
日曜日に夕刊があったなら。ゆとりをなくした現代だからこそ、望まれる言葉なのだろう。
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