それぞれ子持ちで、バツイチ同士の夫婦とその子供たちの物語。
一緒に暮らす妻の連れ子の長女が思春期を迎えた時、バツイチ同士の夫婦の間に「我が子」を妊娠し、それが理由なのか長女は感情が不安定となって、義父に対し、嫌悪感をあらわにする。
俗にいう他人同士の複合家族の幸福とは何かを描いた重松清の「幼子われらに生まれ」はそんなねじれた関係の幸福論。
1970年代は核家族化の時代と呼ばれ、女性の自立や単身赴任などで、核家族化は更に、離婚の時代、母子家庭、父子家庭の時代へと流れ移り、「クレイマー、クレイマー」などという映画も作られもし、連れ子再婚の複合家族も急増しているという。
実の父に虐待経験ある長女が、「本当のお父さんに会いたい」と云いだし、それが心の傷となり、仕事も手が着かなくなり、現実逃避に向かう育ての父。
現実のぎりぎりのところで行われる綱渡りは、仕事が生活の中心であるかのような現代の闇社会とでも呼びたくなる世界。
理解は出来ないけど、こうなるのもありなのかなと思わせる重松清の話術はいつもながら巧みではあるけれども、終盤になって、重松清の甘さが出てしまったような気もする。
平々凡々なはずの家庭とは案外すさまじいほどの忍耐から成り立っているようにも思え、未婚の母として、僕を身ごもり、養父と結ばれた実母、実母が死んだ後、養父の元に嫁ぎ、血のつながりも何もない義母との養父亡き後の暮らし。
思い返せば、そこには平々凡々であるためのすさまじい忍耐が数多くあったとの話を聴かされた想い出が蘇る。
人は夫婦というつがいは元々馴染まず、第三者の介入があるからこそ、夫婦というつがいが保たれているという話を聴いた事もある。
人との距離をうまく取れなくなってきた現代人は、われらに生まれた幼子たちに翻弄され、自分の生存価値を知るのかも知れない。
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