2009-09-27

鼻風邪 Head cold

数日前に口の中の喉元近くがなんか鼻水が垂れたような違和感を感じ、変だぞと思っていると、首筋の喉まわりが痛みのようなものを寝起きに感じ、「風邪なのかな?」と嫌な予感をしているうちに、咳が出始め、胸のあばらがなんとなく痛く、もしかするとガンなのではと思い、実母も乳首のしこりからガンになったんだよなぁと思い巡らし、どうせ死ぬなら、映画「ぼくを葬る」のように抗ガン治療などせずに死にたいと思っていた。

そのうち、首筋、胸の痛みはなくなり、咳と共に鼻水も混じり始め、もしかして、今流行りの新型インフルエンザかぁと、どんな症状なのか無頓着だったので、ネットで調べると、下痢、嘔吐、咳、咽頭痛、倦怠感に加えて、鼻汁・鼻閉、頭痛等とあり、潜伏期間の後、高熱になるらしい。下痢はそれ以前から慢性化しちゃっているけど、嘔吐はなく、頭痛もなく、高熱になる気配もない。

おそらく熱を持たない「冷たい風邪」なのだろうと念のため、常備薬の葛根湯の錠剤を飲み、早めに寝たところ、翌朝の今日は咳は空咳になったものの、鼻水はだんだんひどくなってきた。

熱がないので、仕事にも出かけ、このままよくなりそうな気もするけど、悪化して、高熱が出るかも知れない。

明日、用心のため、病院に行って診察して貰おうかなとも思うけど、診断結果が怖いような気もする。

病気と向き合うって本当難しいけれど、病気を知る事が大切なのかも。

明日、まずは診断を受けてみようと。

2009-09-25

扉をたたく人 The Visitor

静かな映画を観たくて、「扉をたたく人」を観に行った。

妻に先立たれた初老の大学教授がひょんな事からジャンベ(アフリンカン・ドラム)奏者のシリアの青年と知り合う。孤独な教授は青年とその連れ合いと共に生活する事で、閉ざした心を開いていく。

9.11以降、移民政策が不寛容になったアメリカで、「扉をたたく人」の交流を描いたこの作品はアメリカ合衆国の孤独な人たちの物語。

ジャンベの音色に心の交流を交わした教授と青年は、不法入国の嫌疑をかけられ、入国管理局の拘置所に収監された青年を救うべく、教授は足繁く通う。

心の交流のシンボルになったジャンベの音色はDVDでは味わいきれないとの感想に、劇場でこの映画を観たくなったのだけれども、合理主義の世の中、こんな「贅沢」も希少価値になり、インスタントにマイ・ルームで観たい時に観たいDVDを観るのがおしゃれなのだろう。

不寛容になっていく世界は、「扉をたたく人」を警戒し、やがては孤独死を迎えるのだろう。

シリアの花嫁」で存在感ある演技を見せたイスラエルの女優、ヒアム・アッバスの名演も期待通り。アメリカの内からこういう異文化コミニケーションの映画が出て来た事に期待したい。

2009-09-23

石仏 Buddhist image of stone

昔お世話になった元HBCテレビのデレクターの守分寿男さんから絵の個展を開くという葉書をいただき、ギャラリー大通り美術館に見に出かけてみた。

絵心にはとんと疎い方なので、判るかなと不安でもあったけど、会場入り口に「絵」を書かれた動機を記された守分さんの色紙が飾られ、それに並んで、石仏を描かれた絵の数々が壁に飾られてあった。

独り身の地蔵様、夫婦か、親子か、兄弟か、あるいは心おきなく一緒にいられる者同士なのか、二人身の地蔵様。お顔は笑い地蔵に、泣き地蔵、怒り地蔵に、哀れみ地蔵。自然に朽ちたのか、人の手にかかり傷んだのか、欠けた地蔵の姿はその地に生き抜く人々の身なりに似てくるようにも思えてくる。

昔、下手な映画のシナリオの習作を見て貰った時に、登場人物、みんなそれぞれ想いは違うと思うよと助言下さった時と同じく、石仏を描いた守分さんの筆遣いはそれぞれの顔にこだわっているように思えた。

十勝岳の夏と冬の景色の横、四季の石仏として、恐山の夏の石仏が飾られており、それを見た時、数年前に亡くなった友人が晩年、仏像巡りに旅をしていたという話を思い出した。

一番印象に残った石仏画は合掌された石仏の絵。無心になる時、人は仏となるという。

地蔵は転じて閻魔となって、人の行いを振り返させる。地獄業は仏の道。

残念ながら、守分さんにはお逢い出来なかったけれども、今もなお、様々な顔を追い続けていられるのだろうなぁと思う。


守分さんの石仏紹介の色紙

2009-09-21

うちのお父さん38歳 His father is 38 years old.

アルバイトの学生のお父さんは38歳だとか。40代もおじいちゃん世代なんだよね。(笑)

惚けないように気をつけましょう。

今日は職場の懇親会。敬老して欲しいわぁ。

2009-09-20

障害格差 Trouble difference

予告通り、交通費助成制度の見直し案(修正案)の説明会に行ってきました。

見直し修正案に対する質疑応答の中で、精神障害の方が程度2級で、入院している時に、フリーパスである福祉乗車証が交付され、退院し、程度3級と診断されて、交通事業者の助成もない共通ウィズユーカードを貰っても、年間48,000円、月4,000円の交通助成だけでは通院、就職活動もままならないという指摘をされていたけれど、市の福祉局担当は、当初の改正案で、程度による助成の割合を同等にするとした案に対し、「重度は移動困難」と指摘されたから修正案を出したと、云われるがままの福祉行政である事を弁明として使っていた。

問題の本質は、障害程度の格差と、精神障害に対し、運賃割引制度を適用させないで、正規運賃を取る交通事業者の問題なのに、それらをスルーしてしまっている。

そして、この手厚い助成がある重度障害と助成の恩恵をほとんど受けられない中度障害、単なるレッテル貼りにしかなっていない軽度障害の実態を把握出来ていない福祉行政って、何をやっているんだろうと思ってしまう。

予算減額を目標に作られた交通費助成案も結局のところ、煩雑な手間を必要とする通所交通費助成制度案が付け加えられ、無政策だった精神障害に対する助成も組み込み、わずかながらの増額で落ち着きそうだけど、昨今急増している精神障害者へのサポートを含めた福祉予算を枠内でやりきろうとするのはやはり無理を感じる。

就労困難と移動困難という二重障害を抱える重度障害と就労困難なために移動コストを必要とする中度障害の助成格差はそのまま、就労困難に結びついているだろう。

所得調査を踏まなければならない高所得者に対する交通費助成の問題は触れられないのもなんなのかなと思うけれども、程度認定の度に、助成が大きく変わる程度の狭間にいる人たちの不安をこれまた税金である高給取りの公務員は理解出来ないんだろうなぁ。

2009-09-19

四川のうた 24 City

長江哀歌」のジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督の作品を始めて劇場で見た。

長江哀歌」の二番煎じといわれ、何故、役者を使わないでドキュメントとしなかったのかなどの批判をネットで見るけど、「四川のうた」はおそらく個々人がその想い出を語るにはいろんな障害がありすぎるから役者に語らせたのじゃないだろうか?

三国志の舞台となった四川省の成都。そこに50年に及ぶ国営の軍需工場があり、それが取り壊されようとしている。その工場に勤めた人々の思い出話は中国の栄華衰退の軌跡を浮き上がらせ、体制社会から個人の時代に移行しようとする国の今を描き出す。

リストラされた女工、子供と生き別れになった女性、山口百恵のテレビドラマと自分の初恋を重ね合わせる社長室副主任、工場のアイドル的な存在として持て囃され、気がつけば熟年になってしまった女性労働者、母が働く姿など知らずに育った女の子が汗水垂らし働く母の姿を見、両親に新しく高級な街「二十四城」に部屋を買ってあげると気負う女の子。

成都、消えゆくものを携えながらも
生涯、私が誇りとするには充分なのだ

歴史の重みに逃げることなく、自分の立ち位置を見失うまいとする人々がいる事を描いたジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督の作為はうまいなぁと思う。

2009-09-17

飛び石 Stepping-stone

世の中、明後日から5連休らしい。

僕も日程調整して、今日の仕事が終わったら、明日は定休、明後日有給、日月と仕事で、火水は人並みに連休と、飛び石二連休になる。

そんな秋の連休の週末土曜日、集まりやすいとの配慮なのか、交通費助成制度の見直し案(修正案)の説明会のお知らせ西区民センター3階の市民ホール(札幌市西区琴似2条6丁目)にて、14時30分から行われるらしい。

見直し修正案によると重度の障害を持つ者に対しては現状維持を示したけれど、中度の障害を持つ者の移動支援はほぼ半減されるようで、福祉施策の落とし穴が大きくなるのは目に見えている。

無駄遣い行政の倹約下手に突っ込み入れに行こうかなと思うのだけど、久々の連休、のんびりしたいとも思ったり。

飛び石遊びで怪我なきように。

憐れ、我ら、さすらう者、渦巻く時の波間に
中島みゆき「明日なき我等」より(アルバム「日 WINGS」収録)

2009-09-16

リモコン Remote control

仕事から帰宅し、居間に入ると母がテレビを見ていた。何げにテレビの上のJ:COMの受信機を見ると、久々に、メールランプがついている。母にランプをオフにする操作の説明も億劫で何も言わず、自分の部屋がある二階に上がった。

今朝、居間に降りると、いつものごとく、母が寝息をかいており、こちらも寝起きのコーヒーを飲もうとソファに腰掛けると、J:COMの受信機のメールランプが目にはいる。機械のリモコンは母の枕元。起こすのも悪いから、二階に取りつけてあるJ:COMの受信機のリモコンを取りに上がり、ソファーから画面を映さずの遠隔操作。

電源を入れ、メールボタンを押し、決定を二回押すことでランプは消える。

「お知らせ」したい事をメール通知する機能は確かに便利だけれど、使う側の高齢化による操作の困難さを情報提供側はどれだけ理解しているのだろうか?とこんな時、いつも思う。

テレビしか楽しみがない高齢者と余暇を十分に持てない中高年の世帯なんて、ざらにあるだろうに、システム機器は目新しい機能がさも便利かのように多機能化させ、それについていけない高齢者を不安にさせる。

J:COMの受信機なども使ってみると、アナログからデジタルへのチャンネル移行が盛んなこの頃、映らないチャンネルまでスキップせずに受信する仕様になっており、録画などでのトラブルも多い。

目新しい機能に振り回されるシステムエンジニアたちがいるのだろうと思うけど、その迷惑を一番被っているのは利用者。

リモコン操作の気軽さで、目新しい機能を社会に普及させる総務省は実態調査をしっかりすべきと思うのだけど、予算浪費国家の思考は社会の高齢化より、老化しているような気もしてくる。

2009-09-14

マスク Mask

札幌における新型インフルエンザの広まりが報じられ、職場に来ているアルバイトの女の子も感染したとかで、不安を増したのか、接客がメインの週末の職場で、従業員へのマスク配布、着用を会社側に要望しているらしい。

話を聴く限り、会社側からは全員に配布、着用の指示は出されなく、消極的らしいけれども、企業規模が大きいため、マスクの配布、着用を決めたとしても、その適用範囲をどうするかとなると、かなり難しい問題になると思った。

接客に携わるうちらの他、発売窓口の内部は?館内清掃は?ビル保守は?ビル警備は?周辺の道路警備は?などなど。決定事項の指示範囲を定めるのは至難の業だろうし、決めたならば、新型インフルエンザへの不安をあおることにもなる。

多様化するサービス業務の中、単に来客サービスといえども、難しい課題はたくさんあるのだなぁと、改めて思った。

マスクして、内面を仮面で覆い隠すという一面もその中にはあるのだろうけれども、「云わぬが花」がどう転がるかは誰も知らない事。

2009-09-11

アクセシビリティ accessibility

友だちから共通の知り合いが講演をするから、聴きに行かないかと誘われ、しばらく疎遠になっていた「ウェブ・アクセシビリティ」の最新状況を聴きに行ってきた。

基調講演をする知り合いが「アクセシビリティ」の概念を未だに初めから説明しなければならない状況に苦笑しつつ、出かける前に、会社の所長から聴かれた「アクセシビリティ」とはなんぞやという問いに、説明下手ながらも建物の二階に行く手段として、階段、エスカレーター、エレベターを選ぶ事が出来、二階を誰もが利用出来るようにする事と話し、そういう概念を物品全般で配慮すべき点を記したのが「アクセシビリティ・ガイドライン」と話したのだけれど、うちの所長さん、障害だけでなく、人種や宗教などが絡むと難しいと仰られた。その時はうまく説明出来なかったけど、利用する物に対して、どんな配慮が必要なのかであって、その物を利用する側が自分にとって利用可能かどうか、例えば、宗教で「肉食」が禁じられているならば、「肉」がその中に含まれているかだとかという情報が判る事が「アクセシビリティ」。

知り合いも音声読み上げでちゃんと読めるかどうかではなく、読み上げる事が出来るテキストがあるかどうかが、「アクセシビリティ」と話されていた。

最新の「ウェブ・アクセシビリティ」の参考サイトとしてあげられていたページを資料として紹介しておく。

僕も久々、「アクセシビリティ」の復習を兼ねて、勉強してみようと。

最新技術のHTML5やCSS3の仕様、ネットTVの規格化、ウェブ・アクセシビリティの最新規格であるWCAG2.0、改訂されるJIS X8341-3などなど覚える事は山ほどある。

参考資料

2009-09-10

ちいさい秋 Small autumn

急に秋めいてきて、夏の疲れが出て来たのか、お疲れモード。

朝晩の冷え込みと云うほど寒くはないけど、日中との気温差は大きくなっている。半袖でまだいたいような、長袖にしたいようなこの時期、体調を崩しやすくなるのかなとも思ったり。

10年ほど前、寝起きのクシャミから背筋に痛みが走り、ヘルニアをおこして動けなくなった事もあり、この時期が一番要注意なのかもと思いもする。

新型インフルエンザも流行っているようだし、少しの厚着が身体に優しいのかも。

体調の変化で秋を知る、「ちいさい秋みつけた」

2009-09-07

幸せですか?元気ですか? Is it happy?How are you?

今読んでいる重松清の「カカシの夏休み」に「あなたは今、幸せですか?」と幼馴染みにメールする場面があり、幼馴染みから「幸せって何ですか?」と返事が返ってくる。

その幼馴染みたちが集まった時、「お前。元気か?」と聴かれる主人公。

「幸せで、元気」「幸せだけど、元気じゃない」「幸せじゃないけど、元気」「幸せじゃなく、元気でもない」。「幸せ」と「元気」の組み合わせに想いを馳せる主人公は幸せな家庭ではあるけれど、教員としてキレる教え子の家庭環境を心配しつつ、幼馴染みのひとりを突然失い、ダムに沈んだ故郷が干ばつ天気で姿を現そうとするのを心待ちにしている。

幸せだけど、疲れている男。

亡くなった幼馴染みも同じようにダムに沈んだ故郷に想いを馳せ、逝ってしまった。

その骨箱は赤ん坊みたく軽い。

「幸せ」と「元気」はそれぞれほどほどがいいのかも知れない。それぞれ足りないと無理をし、それぞれ満ち足りても無理をする。

帰るところは今の生活にあり、帰りたいから沈んだ故郷に行くと「カカシの夏休み」は結ばれる。

今の「幸せ」と今の「元気」を人は理解せずに「幸せ」と「元気」を追い求める。

重松清は身の回りの「幸せ」と「元気」に気付いてご覧と言いたげに物語る。

どんなに世界は広くても今の「幸せ」と「元気」を守れるのは自分しかいないのだから。

2009-09-06

彼女の生き方 Her way of life

中島みゆきの「彼女の生き方」を聴きたくなった。

浮気女と 呼ばれても
嫌いな奴には 笑えない
おかみさんたちよ あんたらの方が
あこぎな真似を してるじゃないか

彼女の人生 いつでも晴れ

思い通りには 動かない
世の中なんて 何もかも
だけど あたしだって 世の中の
思い通りなんか 動かない

2009-09-04

ねんりんピック Nationwide healthy welfare festival

動ける時間に観たい映画もなく、街をぶらついていると、「しまね」と刺繍されたセーターを着た年配の方々とすれ違い、噂で聞く「ねんりんピック」が始まったのかなと思う。

すすきのは夜祭りとかで、駅前通の南4条を車両通行止めにして、和太鼓の合奏が鳴り響き、心持ち、年配の方々が多いかなという人混みを通り抜ける。

疲れ癒しに行ったスーパー銭湯でも関西弁の年配者がグループで来ており、風呂場の店員に「何の集まりなんですか?」と聴かれ、「ねんりんピック」と答え、「参加資格は45歳からだよ」という補足に、店員さんも「私も大丈夫だ」と笑いながら和む。

歳を取る事を笑いあえるっていいなぁと思い、同じ趣味で集う仲間との憩いを持てる事が羨ましくも思えてくる。

がむしゃらに働く事が自分のためであるかのような野暮などいわず、気心知れあった仲間と仕事の癒しを持つ。そんな方達が今、札幌に全国から集まってきている。

帰宅後、「ねんりんピック北海道」のホームページを開いてみると、「全国健康福祉祭」というのが正式名称らしく、スポーツ、文化から健康福祉機器展まで多種多様らしい。「参加資格は45歳から」というのも今や国民の半数近くになるだろうから、「年輪を重ねた社会」のゆとりを考えても悪くはないだろう。

地下街で週末の仕事で一緒に働き、65歳の雇用止めで辞めたおばさんとばったり出逢い、立ち話で、週末の仕事がなくなって、遣り繰りが大変という話や年配者に対するひったくりなど片や世知辛い時勢を思い出しもしたけれど、「ねんりんピック」の経済効果で地域活性されればと願いたくもなるけれども。

2009-09-03

威張る It domineers.

仕事帰りに寄る街の銭湯。昨夜はそこに恰幅の良いおじいちゃんと若いスーツ姿の男たちが脱衣所に入ってきて、「生活介護の人たちなのかな?」とふと思う。

そのおじいちゃんが脱ぐ服をひとりの若者が受け取り、いったん広げて、きれいに畳んで、脱衣籠にしまう仕草に、今の介護福祉はここまでやるのかと感心しつつ、その一部始終をちらちら横目で眺め見る。

「生活介護」ではスーパー銭湯だと介護者も入浴料を取られるけれども、普通の銭湯だと服を脱がなければ、介護者は入浴料を取られないという話を聴いた事があり、この人たちも服を着たまま、浴場でおじいちゃんの身体を洗うのかなと思っていると、先に浴場に入ったおじいちゃんに遅れないように、服を脱ぐのを手伝っていた男も服を脱ぎ始める。

脱ぎ始めた男の両腕には見事な刺青が掘られていて、「へぇ、あのおじいちゃん、やっちゃんのおっちゃんなんだ」と改めて、湯船につかるおじいちゃんを見る。

おじいちゃんの身体は肥え太りはするものの刺青のたぐいはなく、刺青なんて入れていないのが親分なのかとひとつ利口になりもする。

付添の若い男はおじいちゃんが湯船に入っている時、手桶に水をくんで、持っていき、湯船から上がる時にはお湯と水のそれぞれ手桶をおじいちゃんに持っていく。

手順に間違いがあったのか、「莫迦か」と怒鳴られる場面もあり、おじいちゃんは如何にも偉そう。同じ浴場にいる見覚えのある若い奴が挨拶もしないで身体を洗っていると、おじいちゃんはその若い奴に声をかける。若い奴は石鹸の泡だらけのまま、直立不動で立ち上がり、深々とおじいちゃんに頭を下げて、挨拶する。

おじいちゃんが洗い場に腰掛けると脱衣から付き添う若い奴がおじいちゃんの身体を石鹸つけて、洗い始め、おじいちゃんが頭を洗っている隙に、湯船につかり、体を温める。

ふと脱衣所の方を見るとこれまた体格のいい若者がスーツ姿のまま、おじいちゃんの護衛なのだろうか、浴場の中をじっと見据えている。

顔なじみなのだろうか、入浴していた普通にみえるおじいちゃんとひと言二言話しかけ、そのおじいちゃんは子分を従えて、帰っていった。

威張り方もさることながら、威張らせ方も見事としかいいようがなく、世にはびこるご機嫌取りたちに見せてやりたいようなそんな「威張る」手本を見せて貰った、そんな一夜の出来事。生活介護もここまですりゃ「かたぎさんたち」に迷惑かけないのにね。

2009-09-01

半パン・デイズ Every day of shorts

思い通りにならなかった日々の想い出を書き綴った重松清、お得意の少年グラフィティ。

アポロ13号や万博やオイルショックやスポ根マンガなどなど今、40代のおじさんたちが子供だった頃、いろんな人たちと別れた思い出話は、生きていく寂しさと寂しさを想い出に持つ人の物語。

重松清本人は親の転勤で何度も引っ越し、別れを繰り返した人らしいけど、「半パン・デイズ」の主人公であるヒロ君ことヒロシは小学校に入る前、東京から田舎の港町に親の都合で移り住み、そこで小学校時代を過ごす。

引っ越し間際、入れ替わるように東京に引っ越していく年上のヨウイチ君と新しい生活の不安を分け合い、小学校に入り立ての頃、クラスメートに標準語を喋るのはテレビに出ている人間みたいだとからかわれ、仲間はずれのウソつき小僧、上田君と仕方なく遊んでいたけど、からかわれるのが嫌で、「勇気」を見せるのと引き替えに、上田君をひとりぼっちにさせてしまった想い出。

ヒロシマのゲンバクで身内を一杯亡くし、一杯位牌を持っているチンコばばあと一緒に暮らす事になり、白内障になり、目が見えなくなって、亡くなるまで付き添った想い出も出来、引っ越し当初から遊んでくれた伯父さんのところで働くシュンペイさんが母親がひとり暮らす田舎に咲く牡丹の花を腕に刺青し、周りから白い目で見られ、かばってくれた伯父さんのところにも入れなくなった想い出も出来た。

身体が不自由で、小学一年の頃はクラスメートみんながかばったタッちゃんも高学年になるに連れ、学力アップについてこられず、クラスの中で浮いた存在になっているのが嫌で、かばいはするものの、かばうタッちゃんを疎ましく思えてきた小学四年、タッちゃんは養護学校に転校していった。

少しずつ大人の言葉が分かり初め、年下の存在も気に掛かり始め、友だちにライバル意識を持ち、「半パン・デイズ」の小学時代は後半に向かう。

その事を覚えている事が誇りなように、重松清は主人公を取り巻く人たちを生き生きと描く。

「あの頃」の奴らに会いたいかというと別に会いたくはないけれど、忘れたくはない想い出として、自分がただ見送る事しか出来なかった頃の事を思い返す。

出来ない事を覚えている人ほどいろんなものが見えてくる。そんな語りかけを続ける重松清の本を僕は読みふける。