病気のガンについて、皆さんはどのような認識をお持ちだろうか?
拙者掲載記事『「余命告知」という病』に寄せられたコメントに刺激受け、ガン治療で知り得た知識をご呈示したい。
私の母は乳ガンとなり、片方の乳房切除をしたのだけれど、発見時、本人が乳房に出来たしこりを揉みほぐし、しこりを拡散させてしまった事もあり、数年後に再発し、全身転移の末、膀胱と眼球以外全部ガンになりました。
しかし、ガンでは人は死にません。弱り切った身体に呼吸も苦しそうだったために、医師がのどに呼吸機器を取り付けようとしたところ、たまっていた膿が吹き出し、呼吸器に流れ込んでの窒息死でした。
ガンに関して、近藤誠医師の『成人病の真実』では発症原因が解明されていないと指摘されており、だから、治療法も延命のための薬物や放射線治療しかないのだそうです。
ポリープ切除がガン予防の治療の一環としてなされているのだけれども、良性ポリープが悪性に変わるケースは医学データとしてほとんどなく、予防治療の名目で切除されていると医学データを並べ論じられており、悪性のガンの発生は実のところ、交通事故と同じく偶然的に発病すると思った方がいいらしいく、『放っておくとガンになるかも知れない』といい、患者の自己判断にゆだね、手術を暗に薦める医師はアブナイのだそうです。
日本ではほとんど行われていない海外のくじ引き治験ではガン予防を気にしながらの生活習慣と全く気にしない生活習慣とでは、気にしながらの生活習慣の方がストレスで短命になるというデータもあるらしいですし、ガンの場合は予防治療からして、これが万全というものは存在しない。
そして、ガン治療にとって余命告知云々よりその治療法の選択が患者にとっては大切である事を提案したフランス映画『ぼくを葬る』では副作用多すぎる薬物治療を拒み、天命を待つ主人公が描かれれてたりもしました。
わずかでも長生きできるかも知れないけれど薬害に苦しむ薬物治療と天命を待つ余生、余命のデータではそれ程大きな違いはなく、医師の懐具合が変わるだけのようです。
『「手術」と「薬」に頼る医者を信じるな』が病院選びのポイントでもあるようで、ガンという余命を如何に過ごすかという病気は治療医学の問題点がもっともよく判る分野でもあるようです。
小児ガンの病棟を10年のサイクルで撮り続けている伊勢真一さんの著書『かんとくのつぶやき』で、仲間がポツンポツンといなくなる小児ガン病棟の子供達のキャンプの様が綴られているのだけれど、病棟の子供達の生きている証を残そうとする医師と伊勢さんの対談は如何にガンと向き合う子供達と接するかを語っている。
余命わずかになった時、どのように生きたいか知る事はけして無駄な事ではないだろう。
- OhmyNews : 余命わずかになった時、どのように生きたいか
2 件のコメント:
日々考え続けるテーマであり
書きたいことはたくさん。
でも言葉にできるほど整理されてはおりません。
頭ではこうしようとちゃんと考えているのですが、いざとなった時の自分に自信がありません。
医者との付き合い方として、紹介している『成人病の真実』は「手術をしたがる」「薬を出したがる」医者は信用するなという事を書かれており、何故、「成人病」を「生活習慣病」と言い換えるようになったかを辛辣に解説しています。
「生きる事」に固執するあまり、「死に際」の事を考えず、いつまでもどん欲を求めてしまう。
オーマイニュースのコメントなど読むと「自分の問題」であるのに、「家族がそうなった時の対処法」として「余命告知」を読まれているような感じがして、つくづく我が身の事を考える習慣が日本人はなくなっているのじゃないかとも思いました。
okamiさんはどうなのでしょう?
この前、新聞コラムで自分の死後の支度を出来るのは女性であり、男性は死後の支度を出来ないという話が載っていましたが、余命わずかとなるとまた違うのかなとも思ったりします。
強烈な余命の生き様を見せつけ亡くなった母がいたから、こう思うのかも知れないけれど、父は急死する間際、もの凄く寂しがりました。
『ぼくを葬る』の主人公の苦悩もおそらくこの世に対する未練なんだろうなぁと。
余命の生き方とは今を生きているかという問いのようにも思います。
それくらい、明日を夢見て、今を大切にしていないような気も。
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