2007-09-15

映画監督は”著作権者”ではない? ! Isn't the movie director "Copyright person. "?!

【「黒澤監督も映画著作者」廉価版DVDに販売差し止め命令】なるニュース記事が目にとまった。

判決を下した市川正巳裁判長は、これより先の判例である「チャップリンDVD著作権侵害」の判決(東京地判平成19年8月29日(H18(ワ)第15552号[PDF])に準拠したのだろう。「著作権は、監督が死去した98年の翌年から38年間存続する」として、販売差し止め命令した。

しかし、映画に関しては、1971年に「映画の著作権は映画製作会社に帰属する」と著作権法が改正され、映画監督は著作者として「著作者人格権」(同一性保持権、氏名表示権、公表権)があるけれども、著作権者としての「財産権」はないとする配給側に有利な法令文があり、日本映画監督協会は法改正を求める活動を行っており、「著作権について」にて、その仔細は記されている。

文化は個人の物なのか、社会の物なのか

おそらく、黒澤明作品の映画に関しては監督のご子息が黒澤明作品の権利を所有したがために、「監督が死去した」云々という、チャップリンの遺族がフィルム管理を委託した会社のケースと同じように、判決を下されたのだろう。

けれども、この判決によって、DVD販売会社「コスモ・コーディネート」が発売された他の映画作品も販売差し止めになる事だけは避けて貰いたい。

DVD販売会社「コスモ・コーディネート」が発売した作品は、黒澤明作品以外には世界的に日本の名監督と知られる小津安二郎溝口健二成瀬巳喜男などの作品も含まれており、スペインで発売されているのに、国内の正規版が発売されていない成瀬巳喜男の『おかあさん』や国内正規版では単品発売されていない戦前の小津安二郎作品など、DVDの時代となり、観られる機会が得にくい物も含まれている。

日本の古い映画がマニアの間でしか関心向かない実情にあぐらかく映画会社に一喝するために、黒澤明作品を目玉に、廉価版DVD30枚が発売されたものと好意的に理解したいし、広める努力を怠る映画会社の怠慢の方を問題にしたい。

日本ではなかなか広まらないパブリック・ドメインは、欧米では常識となっているもので、映画に関しては公共資産として制作50年を経た作品は、誰でも自由にコピー配布していいとするもので、Public Domain Movie Torrentsなる合法的なサイトもあるほど、文化資産の継承を重視する物である。

ただ、ミッキーマウスしか売れるキャラクターを作れなかったディズニーが著作権を50年から70年に延ばせなどという駄々っ子を云いだし、法改正にもなったミッキーマウス騒動なんて云うのもある訳で、文化が個人の物なのか、社会の物なのか議論が絶えないところでもあるのだけれども。

冷遇された日本の文化

今回、黒澤明作品が話題の中心となりはしたものの、黒澤明に対する1970年代の日本の映画会社の冷遇は国際的文化損失とまで揶揄される出来事であり、黒澤明が晩年、旧ソ連やアメリカ資本で映画制作をされたのは有名な話である。

その黒澤明作品もご子息が経営する会社が保存状況が悪い戦時中の作品の復刻など丁寧なデジタルリマスターを施し、しっかりした解説付きで、DVD発売した経緯などもあり、その販売を任された国内の映画会社にとっては、古い映画で商売になりにくい実情、唯一の「稼ぎ頭」を奪われるのは痛いところでもあろう。

しかし、国内文化の過去の遺産を普通に接しにくい環境を作ったのは映画会社であり、二次利用の用途が、テレビ放映、ビデオ販売とニーズが大きくなるにつれ、その「財産権」をクリエーターと分かち合おうとしなかった失点は大きいし、欧米が早くから「文化遺産」として映画や音楽のアーカイブ化に積極的であったのに対し、日本は「売り切り」感覚しかなく、話題作以外の作品の保存状態も格別ひどく、「雨」の降る映像は「復刻したくない」という本音も見え隠れするのではないか。

また、企業保護の圧力が法案化にまで影響していると云われてる「再販法」や国内の価格保持を名目に、国内でまだ正規復刻されていないのに、パブリック・ドメインとして出されている中国、香港、韓国などの古い日本映画DVDが輸入禁止にされているケース、在日問題を果敢に取り上げたやくざ映画『やくざの墓場 くちなしの花』がアメリカで売られているのに、日本では売られていないケースなど、世界では簡単に入手できるのに、日本国民が古い日本映画が気軽の観られない状況が多々存在したりする。

庶民にも安く文化を親しんで貰う天井桟敷がそれを下地とした文化人を生み出すとする欧米の「種まき」の発想がインターネットを生み出し、文化の後継を模索する時、既存の販売ルートを保持しようとするだけで、クリエィターの権利や文化の社会的価値を高めようとしない「文化」はやはり「亡国的」で危ないような気がする。

1960年代にフォークソングに代表される過去の文化再発見を行ったアメリカも、体系的な文化史が語られることなく、ショウウィンドウ化された過去の文化物展示のみが横行していると嘆く声も聴かれるそうだけど、過去の文化物を顧みる機会さえない我が国においては、著作権という暴力に脅えながら、刹那的になるしかないような気がする。

”著作権者”となれる投資家になった時、日本には海外に売る文化があるのだろうか?

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