2007-09-25

人の死を看取る人たち People who take care of the person's death

死刑執行に関わる人たちを知っていますか?

鳩山法相が「法相が絡まなくても自動的に客観的に進むような方法」などという発言をされるほど、死刑囚の増加が問題となる日本。

案外、死刑執行の実態は知られていないのじゃないだろうか。

法相の判断がどのような形にしろ執行命令が下ったならば、死刑執行に関わる方達の職務が始まる。

処刑を行う死刑執行職、死刑囚の最期を見取る医師や牧師、お坊さん。それに墓掘り職人もいれば、火葬場職員もまたいる。

人が死ぬ時、看取る人たちは数多くいて、死刑囚もまた立ち会う人たちも同じほど多くいる。

そして、普通の死とは違い、汚物を吐き散らし、死んでいく様を立ち会う人たちは立ち会わされる。

法の名の下の処刑は、自殺と決定的に違うのは立ち会う人たちの数である。

死刑囚に自殺は許されない。あくまで処刑されなければ、刑は執行された事にはならないから。

それはアメリカ黒人のリンチの末、木の枝にぶら下げられた奇妙な果実でもそうであり、アウシュビッツのユダヤ人のガス室も苦しむから処刑になり得た証である。

「死刑」は「死」の恐怖を味合わせる「刑」であり、「刑」を行った後の「死」は弔いである。

例え、アメリカ黒人の奇妙な果実やアウシュビッツのユダヤ人のショベルカーによる遺体処理であったとしても、鳥や虫や獣たちがその肉を喰らい、ウジがわき、土に帰っていく。

日本は名もなき罪人の亡骸を弔い、墓標の代わりに桜の木を植えたという。花咲爺のお話のように桜の森の満開の下、罪人たちは眠る。

罪人の咎を責め、社会秩序を顧みない村人たちはその遺族に対し、出産と葬儀以外は付き合わぬ村八分の生き地獄を味合わせ、責め殺したとも云われる。

村人たちの願いを聞き届けた役人はいつの世も浮き世に生き、自分が死ぬ時、看取る人の多さに始めて気がつくものである。

「死刑」は死ぬ恐怖を味合わせるためのいたぶりであるから、極刑と呼ばれるのであろう。

極刑で加害者は口を封じられ、事件の社会的背景は問われることなくなる。

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