2007-09-06

阪東妻三郎という日本人 Tsumasaburo Bando

田村高廣、田村正和、田村亮の父であり、日本映画創成期から戦争の動乱を経て、戦後復興期にかけて、娯楽など何もなかった日本に日本人の美しさを演じ続けた男、それが阪東妻三郎でした。

阪妻という通称で親しまれた阪東妻三郎の戦中、戦後の名作二作が数年前に出されたDVD-BOXから単品発売される。

一つ目は、戦時中に伊丹十三の父、伊丹万作が岩下俊作の原作「富島松五郎伝」を脚本化し、自ら病弱のため、メガホンを撮る事が叶わず、朋友、稲垣浩が監督した『無法松の一生』。

無学な車夫が帝国軍人の遺族に想いを寄せ、か弱い母子に献身的に尽くす物語は、戦時中、車夫が未亡人に想いを打ち明ける場面を「淳風美俗」に反するという理由から内務省による検閲によりカットされ、戦後、民主主義を与えるはずの占領軍GHQにより、息子が学芸会で「青葉の笛」を歌う場面が、軍国主義を思い起こすということでカットされる。

権力の手により、二度までもずたずたにされた映画は、その後、未亡人を演じた園井恵子が、軍隊慰問公演などの移動演劇隊"櫻隊"に参加し、広島で被爆死し、戦後まで生き延びた伊丹万作も手のひら返しの戦争犯罪告発の風潮に対し、「戦争責任者の問題」を執筆の後、精神薄弱児を描いた『手をつなぐ子等』の演出も叶わず、敗戦の翌年厳しい暑さの中、「病苦九年更に一夏を耐えむとす」と句を詠み、無念の死を迎える。

無学を恥じ、「オレの心はきたない」とつぶやく無法松演じる阪妻のひたむきな献身ぶりは幾度となくカットされてもなお、日本人の美しさを誇りにしようした故人たちの遺影のように強く光り輝いている。

二本目の『王将』もまた、世情に翻弄された敗戦直後、チャンバラ劇は作ってはならぬとのGHQの命令により、時代劇の神様でカメラを移動撮影するのを得意としていたために、「イドウダイスキ」とあだ名され、伊丹万作の臨終にも立ち会った伊藤大輔が撮った現代劇。

大阪通天閣の街、新世界に暮らす将棋一筋の坂田三吉を描いたこの映画もまたオーバーリアクションの阪妻の演技で支えられもした。

市井の庶民の哀歓は、羽振りの良い時には持て囃し、ひとたび落ち目になると彼を見捨てかえりみようとしない世間の表裏、人情のどんでん返しを描いたこの映画は「卑賤の肉体に光る高貴な魂」と評されもし、戦前からの美しい反逆児である阪妻と伊藤大輔監督はそのまま、坂田三吉でもあった。

阪妻の出世作であり、阪妻がフィルムを所持していたため、奇跡的に完全版が残っている『雄呂血』、活劇映画そのものの『血煙高田馬場』などの戦前の名作はまだ復刻されていないが、市井の庶民を演じさせたら天下一品だった阪妻、演ずる日本人は今でも観れば、郷愁を誘う事だろう。

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