交通費助成の学習会で某障害者団体の方のお話を聞いたけれども、どうも行政マンの視点に立ちすぎていて、当事者置き去りと思われる話をされていた。
横塚晃一『母よ、殺すな』にこんな一文がある。
健全者がトイレで他人にお尻をふいてもらうという事を考えたとき、 さほどの抵抗を持たずそれを出来る人は、まずいないであろう。(p295)
障がいを持たない人(某障害者団体の方は障がい持つ方だけども)が贅沢云うなという事はけして贅沢な事ではない。それはあくまで想像力の欠如であり、他人事としか捉えないから贅沢なのだろう。
1980年代の山田太一の『男たちの旅路』「シルバーシート」で語られる「老いれば判る。」と同じ話と思う。
日本人は個の思想を殺す事で近代化し、総動員、総玉砕、集団就職で今日まで来た国だから、個人個人の差異の共鳴が理解出来なく、個人化進む現代、孤独死が広まりやすいのじゃないかな。
それはフランスの個人個人の差異の共鳴が薄れていき、孤独死が広まった事例とは違うような気もする。
この場合、どちらがいいかではなく、孤独死社会にならないための共生、共働の社会が求められると思うんだけどね。
年老いて、トイレで他人にお尻をふいてもらう時、適切な文句が言える事が大切と思うのだけども。
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