日本の障がい者運動の原点となったと云われる脳性麻痺団体、青い芝の会の故人、横塚晃一氏の名著「母よ、殺すな」が昨年、数十年ぶりに復刻されたので、読んでいる。
1970年、核家族化が顕著化した時代、障がい持つわが子を殺した母に減刑を望む世論に猛烈に反撥し、障がい者(児)の立場を「殺される側」として、相応の裁きを望んだ青い芝の会は、介助なくては生きられない自分たちの自己探求をストイックに問い詰め、会の行動網領として、「われらは、愛と正義を否定する。」と宣言するに至る。お恵み、馴れ合いとしての社会保障ではなく、自分たちが生きるために欠かせない物、当然の権利としての社会保障を求め、活動し続けた。
その著書は横塚晃一氏の書き残したものとあわせ、横塚氏が出演したドキュメント映画『さようならCP』の上映時に行われた意見交換会の模様が収録されており、障がい者福祉のあり方が熱く語られており、その提言が単に障がい者当人の問題ではなく、「働かざる者人に非ず」が大手をふるい、「働けなくても生きていける」社会保障が語られない健全者社会の問題でもある事が見えてくる。
健全者と障がい者は「同じ人間」とすると見えなくなるものにこだわり、健全者と障がい者が「同じ人間」でない事にこだわる姿勢から障がい者というスタンスを見いだそうとした運動は、横塚氏が晩年、口にしたという「心の共同体」になるのだろうが、そこを明確に示せぬまま、横塚氏は亡くなられた。その著作から読みこなしていけば、互いの違いを明らかにしなければ、「する」「してもらう」の関係は変わらなく、「殺す」「殺される」理論が存在し続けるとなるのだろう。
横塚氏のその理念は青い芝のメンバーに受け継がれ、「心の共同体」を作るための「健全者手足口論」なるものも出されたりもしたのだろうが、互いを知る「心の共同体」を理解されぬままに、云うがままに健全者は障がい者の手足口になるべきと誤解されもしたのだろう。障がい者の手足口になる事により健全者が出来なくなっても生きられる事を知る「生存権」の必要性であるはずなのに。
ドキュメント映画にもなった『えんとこ』遠藤滋さんなどが実践されている「生かしあう関係」はそんな青い芝の議論から生まれたものであるだろうと、この本を読み、思いもした。
昨今、ますます社会保障の不備が取り上げられるのに、行政の福祉切り詰めは加速してきている。運動論を語る人々は、当事者が声があげないと嘆かれるけれど、殺される側の理論を説いた当事者たちの社会保障に対する危惧は、少子高齢の福祉切り詰め行政として、現実の物となろうとしている。
今の社会問題は声を出さない当事者の問題ではなく、「働かざる者人に非ず」として少子高齢、環境破壊を推し進めた健全者社会の問題であり、福祉切り詰めの加速を許す政治の問題だろう。
ゆとりなき時代の行く末に殺される側の理論は存在する。
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