木曜夜、職場の従業員の会議があり、「共に生きる」をコンセプトとする職場内での「共に生きる」難しさが議題を通して、感じられた。
参加出来なかった千葉県の「障がい者差別禁止」の法案作成に関わられていた野沢和弘さんの講演会のテープ起こしを仕事としてやっていたのでなおの事、考えさせられたのかも知れない。
野沢さんのお話の中で、当日、会場中がむせび泣いたという場面のテキスト化は涙こらえながらの作業で、そこで語られる「共に生きる」難しさと、職場の中で語られる日常業務をそつなくこなそうとするがゆえの「共に生きる」難しさは表裏一体のような気もした。
いじめ自殺した中学生には知的障がいを持つ両親がおり、その両親をかばおうとして、幼い兄弟たちの世話を見、身なりや風呂にはいる事もままならずに、同級生から「汚い」「臭い」と言われ続けた男の子。その子がお年玉で蓄えた20万円の小遣いで幼い兄弟たちと遊園地に行き、楽しい想い出をいっぱい作った末、使い果たした時に、ロープで首を吊ったという哀しい事例がひとつ。
同級生に妹が重度の障害がある事をひたすら隠そうとする男の子。その子の母がお兄ちゃんの野球の晴れ姿を妹に見せたくて、男の子に内緒で、隠れるように野球の試合を車椅子の妹と見に行き、野球で勝ったのを見届け、そっと帰ろうとした時、一緒に野球の試合に参加した子供たちが、駆け寄ってきて、車椅子の妹の頭に手をやり、「勝利の女神だね」と撫でてくれたという話。
同じ子供なのに、この二つの話に出てくる子供たちは何故、こんなに違うのだろう?子供たちに問題があるのではなく、その子供たちを取り巻く大人たちの問題なのではないだろうか。野沢さんはそんな事を淡々と話されていた。
社会という大きな器で語っていくと、良し悪しの判断は簡単に云えるけど、野沢さん自身、知的障がいを持つ上の子とその兄をかばおうとする下の子が、クラスメートから罵声を浴びせられている現場で、親はいじめられる子の親であるが故に、クラスメートを叱りつける事も、学校に言いつける事も出来なかったという。
障がいを持つ当事者の苦悩を理解するのは、易しいようで、難しい。
「共に生きる」難しさと「共に生きる」甘え、「共に生きる」厳しさ、それらを知ろうとする事が話し合いなのであるのだろう。
相手を知らない事もまた障がいなのだから。
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