月曜日に亡くなった従弟は生まれ故郷に帰り、荼毘に付された。かと思いきや、今朝、母が「従弟も今日とうとう骨になるのか」とつぶやき、えっ?!と聞き返した。
田舎の火葬場は亡くなった人が多く、火葬の空き待ちとかで、4日も待たされたそうな。
脳死で死ぬのを待ち続け、死んだら、火葬に待たされる。
生きるも地獄、死ぬのも地獄の世の中なのね。
月曜日に亡くなった従弟は生まれ故郷に帰り、荼毘に付された。かと思いきや、今朝、母が「従弟も今日とうとう骨になるのか」とつぶやき、えっ?!と聞き返した。
田舎の火葬場は亡くなった人が多く、火葬の空き待ちとかで、4日も待たされたそうな。
脳死で死ぬのを待ち続け、死んだら、火葬に待たされる。
生きるも地獄、死ぬのも地獄の世の中なのね。
すっきりしない空模様が続くこの頃、昨夜も雨が降りしきっていた。仕事帰りに銭湯に寄り道して帰宅するのは午後10時過ぎ。家の前に来ると、いつも定期検診を受けに来ていた従弟の車が停まっているような錯覚を思い描く。
家に入ると、母が従弟の訃報を教えてくれた。
享年38歳、ガンによる脳死の末の死だった。
僕より若い人たちが自殺で死んでいくのはいつの時節にもあるけれど、この頃は身近な方々の病死が増えている。
若いと心臓を動かす筋力が強いため、脳死になっても生き続ける。肉体、精神の限界に思いを巡らす事の出来ない時代の犠牲者は脳死者かも知れないと思う。
自分の38歳の時を思い返し、彼の脈打つ「いのち」の無念を感じ、生きる者すべてもやがては脈打つ「いのち」の無念と向き合うのだろう。
従弟は生まれ故郷に帰り、荼毘に付される。
今朝、出勤途中の地下鉄で、真新しいスーツを着た青年が僕の隣に座った。
ぶら下げていた大きなカバンを床に置き、腰掛けた彼は一枚のメモ書きされた紙切れを広げ丹念にそれを読み返していた。
メモ書きされた紙切れが気になり、悪いと思いつつ、さりげなくのぞき見ると、乱れた文字で殴り書きされかけたその文面は、面接を受けるための下書きなのか、ハローワークで語るためのものなのか、判らないけれども、自分の苦労の話が切々と書かれてあった。
その文面には、「正社員になりたくて」という言葉が何度も繰り返されていた。「正社員になりたくてアルバイトをした」、「正社員になりたくて朝四時半に起きた」、「正社員になりたくて頑張ったけれども体力が持たなくなった」。
行き先を確かめるため、地図を広げ、眠気覚ましなのか自分の顔を平手で叩き、下車する駅に着くと彼は降りていった。
週末の職場では業務縮小の昨今、今の職場ホストを維持するために、現場を知らない役員幹部へどうアプローチしていくかの画策が見え隠れもする。地下鉄の彼を取り巻く厳しい状況はよーく判る。
職場近くの駅に着き、降りると駅前ではどこかの政党の広報カーの「景気対策」を連呼する声が聞こえて来る。
政治を志す方々はどれだけこの厳しさを理解しているのだろう。ふと思う。
特に観たい映画もなく、午前中は録り溜めしたDVDの整理をし、雲行きが怪しかったので、傘を持ち、昼からはのんびり街をぶらつき、スーパー銭湯へ。
雨も降る事はなく、ただ邪魔くさい傘があるだけで、特別変わった事もなく、馴染みの定食屋で晩ご飯を食べ、外に出てみると、霧雨のような細かな雨が降る中、豊平川河川敷で行われている花火の音が聞こえてくる。
帰宅しようと街を歩くと、浴衣姿の若者たち。見上げれば、アーケードのかかった狸小路ショッピング街に大きな狸が宙を舞う。
「狸祭りか」化かされたようにはっきりしない空模様が連日続く夏、狸は空を飛んでいる。
写真 : 空飛ぶ狸
子供が生まれた女性は父親を「お祖父ちゃん」と呼び、母親と「お母さん」と呼び、相談事は母親に話し、決定事項を父親に話す。重松清の「定年ゴジラ」の中で描かれる定年過ぎの親父たちの仕事から解放された哀歓はすんなりと受け入れられる。
居場所がないようで、老け込むと「しっかりしてよ」といわれる親父たちは娘らからすればいくつになっても働く父のイメージなのだろう。
息子となるとまた違ってきて、人生の先輩でありながら、自分の将来を重ね合わせたくはない存在で、同性であるが故に疎ましい存在でもある。
僕も父に対し、そんな感情を持ち続けていた。父と距離を取ろうとしていた。定年となり、人に使われる苦渋から解放された父は、その夜、ひとり飲めばすぐに真っ赤になるビールを飲み、自分をねぎらっていたけれども、僕は素っ気なく、そんな父と接していた。
定年後の手持ちぶさたの時期もねぎらう事もなく、父の急死とともに父がいなくなった寂しさを感じはしたけれど、父の寂しさにまでは思いが至らなかった。
「歳を取れば、あんたにも判る」とバスジャックする年寄りたちを描いた山田太一脚本の「男たちの旅路 シルバーシート」を思い出す。
そして、そんな日本の親父たちの一員に僕もなるのだろうと思ったりする。
「すべてを許してくれ、迎え入れてくれるお母さんがいるところが故郷。」小説の中で語られるこのセリフは親父たちもまた、自分を認めてくれるお母さんを心の故郷として生きている。
厳しさじゃなく、生きてるうちに優しさを。
ここ10年の間に、母親、兄貴をガンで亡くした従弟が本人もガンになり、毎月定期検診を受けに札幌に来ては、我が家を寝泊まりの場としていた。
先月来た時、いつになく僕が帰宅すると「お帰り」と明るく声をかけてくれた従弟は、ひび割れかけたトイレの便座を壊してしまい、茶目っ気たっぷりに「壊れた」と母に告げたという。
胸には大きな手術で切り開かれた傷のある従弟が帰った後、帰宅した僕にその事を母は告げたけど、責めるのも酷と思い、何も言わず、トイレの便座を買い換えた。
毎月定期にやってくるその従弟が今月はまだ来なく、どうしたのかなと思っていたところ、母に電話があり、従弟のガンは脳にまで転移し、入院したと知らされた。
目を開ける事も出来ず、手を握っても握り返す力もない、ただ若さだけで、生命力がある。すぐではないけれども、長くはない。従弟はけれど生きている。
母親、兄貴と同じ最期を待つ従弟の傍で、妻、長男、そして次男と看取る役目になってしまった伯父がいる。そして、ただその状況を電話で聴くしかない母がいる。
二階の自室でパソコンをやっていると、階下から来客らしき人の声が聞こえてきた。自律神経で家に引きこもりがちの母を気遣ってくれる近所に住むおばさんの声だ。茶の間から母が出迎え、二人の会話が二階まで聞こえてくる。
「この頃、耳が遠くなったみたいで」
「耳が遠くなると長生き出来るって云うよ。」
「余計な神経を使わなくていいからね。」
耳が遠くなったという母を元気づけようとするおばさんの気持ちに感謝すると同時に、耳が遠くなり、年老いていく母に寂しさを感じた。
「余計な神経を使わないように」「余計な神経を使わせないように」神経過敏が神経を鈍らせる。
「惚れる」と書いて、「惚ける」。老いるとは人を思い尽くす事なのかも知れない。
午前中はパソコンのネット接続トラブルの対応に追われた。まずはセキュリティソフトで何かしかのエラーがないか、エラー表示をポップアップさせ、その表示されたエラーを元にネット検索、どうやらコレガのルーターか犯人であると突き止め、対処策を調べているところへ問い合わせていたプロバイダーからサポートの電話が掛かって来る。ルーターを外し、光ファイバーのモデムとパソコンを直で繋いでみて、ネットにアクセス出来るか試すようアドバイスを受け、試してみる。きちんと繋がり、問題はルーターであると判り、コレガのルーターのサポートに問い合わせてみて下さいというプロバイダーのアドバイス通りにコレガに問い合わせメールを送り、まずは外出する。
映画を観ようか、どうしようか迷いもあったし、ルータの問題が解決しない時に備えて、ルータの価格を調べるために、大型家電店の建ち並ぶJR札幌駅にまずは行ってみる。ルータの価格はピン切りで、「安物買いの銭失い」になるのも嫌なので、衝動買いは控え、パソコンの周辺機器に詳しい職場の後輩に聴いてから買う事にし、ざっとパソコンコーナーを見て回る。
時計を見ると、札幌駅のところにあるシネマブティックでやっているウディ・アレンの「それでも恋するバルセロナ」に間に合いそうなので、急ぎ、シネマブティックへ。
ウディ・アレンの映画を劇場で観るなんて、何十年ぶりだろうと思いつつ、始まった映画はあぁ、ウディ・アレンだなぁと思ってしまった。
少しうざったくも感じるナレーションによる物語の進行とスペイン、バルセロナという舞台を巧みに使ったスペイン男とアメリカ女二人の恋のさや当てゲーム。
物語はスペイン男の元妻が出てくるあたりから、英語とスペイン語が乱れ飛び交い初め、往年の名作「アニーホール」のグローバルバージョンと思ってしまう。日本語字幕を読む上ではさして気にならない三つどもえの会話も、スペイン語を知らないアメリカ人が観たならば、おそらく混乱するのじゃないかと思えるほどの会話のやりとり。
恋のさや当てを描きつつ、グローバルとはこんなものでしょうと云わんばかりのウディ・アレンの演出はまだまだ若々しい。
恋の深みにはまるのが怖い女性と深みにはまり自分を見失うのが怖い女性の結末は思い通りにはならないグローバリゼーションに翻弄されるアメリカのようで、これまたウディ・アレンらしいシニカルさ。
男の描き方がつまらないという指摘も頷けるけれども、アントニ・ガウディの作品群とジョアン・ミロの絵画や彫刻を観光気分で見ているだけのアメリカ・エリートへの風刺がメインとここでは評価しておきたい。
ウディ・アレンの予定調和な合理主義に対する風刺もスペイン人の映画監督たちから云わせれば、予定調和的な展開ではあるだろうけれども。
7月14日の夜に家のパソコンを立ち上げるとネットに繋がらない。何故なのだろうと原因を探るために、各種設定を調べてもよく判らない。
ちょうどその前の日にウイルスセキュリティ・ソフトのバージョンアップがされたから、そのせいかなと思ったり、ルーターにアクセスし、接続確認をしてみたりしてもさっぱり判らない。
とりあえず、手持ちのPHSから接続を試み、ネットに繋げてみたけれども、通信速度の遅さにうんざりする。
翌日、職場のパソコンでウイルスセキュリティ・ソフトの最新版をダウンロードして、帰宅後、インストールし直し、まだ繋がらないネット環境を更に調べ直してみる。
ルーターにアクセスすると、ルーターはネットに繋がっているみたいなのに、アプリケーションではネットにアクセスできなく、ウェブの閲覧はもとより、メール受信、サイト更新のためのFTPのアクセスなど不便さが募りもする。
念のため、PHSでネットに繋げ、使っているプロバイダーのサイトにアクセスしてみると、やはり7月14日の夜に回線トラブルがあったようだけど、回復しているという記載がある。
ルーターは繋がっているのに、アプリでは繋がらなく、PHSの接続だと問題なく繋がるという怪現象、その解決の手だてにまだまだ振り回されるかと思うと正直うんざり。
先日、仕事の役に立つとのことで、出かけ、聞いたセミナーの中で、マーケット・シェアの話を聞いた。その話の切り口として、日本の人口構成が語られ、40代以上が全体比の55.75%という数値を教えられた。
そのデータの参考になったと思われるのが、統計局に掲載されている「年齢(5歳階級),男女別推計人口」のようで、最新の統計表にてExcelファイルが入手できたので、簡単な集計をしてみた。
20代以下の少数値は驚異的で、ここに数の論理を当てはめると高齢者文化の中で育つ子供らが見えてくる。
もうひとつ、分析資料を提示する。
世代別の人口からすれば数パーセント程度だけれども、20代から40代までの労働世代に占める割合は多いと思われ、少子高齢の話題の陰で、外国人の労働力への依存の高まりは感じ取れる。
セミナーでは、この少子高齢の影響として、グローバル競争の時代に国内企業が生き残る術として、大企業同士の合併や出演料が安いタレントをテレビ局のスタジオに集めて作られるバラエティ番組という低コスト番組など、かつてはお金を幾らでもかけられた日本資本の厳しい現状が語られ、この先にあるビジネスのあり方について話されていた。
戦後日本は史上類をみない団塊の世代という数の論理で語られ、高度成長してきたけれども、既に始まっている少子高齢で、数の論理を続けていくと日本は破滅する。セミナーで語られたOne to Oneの顧客サービスや顧客の輪を広げるコミュニティの構築は、敗戦後間もない日本で繰り広げられた復興景気のようにも聞き取れた。
バーチャルが広がり、リアルな人間関係が苦手になった現代にとって、多数決ではない生身のつきあいがどれだけ活かせるのか、それは便利さという不便を手に入れた私たちの課題なのだろう。
週末、札幌の夏を告げる中心街の祭りが繰り広げられ、市内各地から神輿担ぎに集まった人たちが、例年通り、更衣室が設けられたうちの職場に出入りし、賑わいを増していた。
毎年、神輿担ぎに参加する知り合いの方とも、今年も出逢い、立ち話で、先日亡くなった友人の話となり、「まずはお互い、身体に気をつけよう」と別れた。
身近な人が亡くなるたびに、語られるのは自分の身体の大切さが普通の感覚と思うけど、鳩山邦夫・前総務相はさすがは「死に神研究家」らしく、「自殺というのは、DNAが働いているのではないかと言われている」と述べたらしい。
1948年生まれの60歳ともなると身近な方達の「死」を沢山見過ぎるのか、「死」についてその因果関係を軽々しく語れるほどになれるのだろう。
僕も若い頃には身近な友だちで自殺した人たちが何人かいるけれども、その身内に「DNAが働いている」などとは云えないのは、まだまだ人の死を見てきていなく、修行が足りないのかなと思ったりしちゃう。
中川昭一氏のお父様であり、中川義雄氏のお兄様である中川一郎氏も自殺した方として知られた方だけど、そのご親族にも教えてあげるとよいと思う。
鳩山さんの家系は自殺者はいないみたいだけれど、総理経験者のお祖父様である鳩山一郎氏は脳出血で倒れられた事もあり、遺伝云々で云うならば、ご自身の脳出血を気をつけられた方がいいと思う。
人の死因に関して、日本という国はかなりいい加減な国だそうで、法医学の不備を指摘されて久しく、変死鑑定なども余程の事がなければ行われないのが実態と聴きもする。
「死に神研究家」ならば、その辺の事情の改善を追求すべきで、そうする事で、死亡保険金の不正受給や誰にも知られぬ怨恨による殺人事件の犯人検挙にも役立つだろうに。
「自殺というのは、DNAが働いているのではないかと言われている」というのならば、親身になり、悩みを聴く周りの環境が不誠実だからであるからだろうに。ねぇ、亡き中川一郎様。
お父上、鳩山威一郎氏が行ったとされる戦後最悪の狂乱物価を招いた超インフレ予算などではその影響を被った方がどれほどいたかは今となっては判らず仕舞いだろうけれども。
「まずはお互い、身体に気をつけよう」凡人たちの会話の方が人間味あふれ、ほっとすると思う、そんな年頃。
外は一日おきの雨降り、休みの日なので映画を観に出かけるのが日課になっているのだけれど、何となく気が進まない。招待券を貰ったことだしと気分転換に名画座蠍座にエドワード・ズウィック監督の『ディファイアンス』を観に行く。
映画鑑賞中、雑念がずっとあり、やはり見に来るべきじゃなかったと思ってはみたけれど、ユダヤ人のナチズム・レジスタンスものはそれなりに見せてくれるし、娯楽映画仕立てを得意とするエドワード・ズウィック監督だけに引っ張るうまさは確かにある。
しかし、“ビエルスキ・パルチザン(民衆による非正規軍)”として、殺されたくないから戦うユダヤ人の物語は同じくエドワード・ズウィック監督の『ラスト・サムライ』の展開がそっくりじゃないの。旧約聖書に出エジプト記といくら重ね合わせて描いても、僕の目には『ラスト・サムライ』に見えてくる。
ネタ切れハリウッドで頑張るエドワード・ズウィックも自作リメークになってしまったかとちょっとがっかり。未見の『ブラッド・ダイヤモンド』もストーリー展開が同じだったりして。(笑)
前近代の日本、第二次大戦の東欧、現代のアフリカ、エドワード・ズウィックの現代史巡りがひとつの物語で繰り返されるのも面白いのかもと思いもするけれども。
最近、夕飯を外で食べる時、「雑穀米」の定食屋や「だったん麺」のそば屋などを利用している。
黒米やひあ、きび、大豆、玄米などブレンドされた「雑穀米」は食感も悪くはなく、もちもち感があり、お米のような炊きたての匂いも感じられなく食べやすい。
定食屋では「麦飯」と「雑穀米」と選べるようになっており、「麦飯」ならばおひつで出され、お変わり自由、「雑穀米」は小丼一杯という差がある。
「だったん麺」の方は血圧によいとされているルチンが豊富に含まれており、麺の色も黄色なのだけれども、地元産の麦粉を使っているその店の麺はこれまた食感がいい。
週一のサービス定食として野菜天丼とのセットが提供される時に食べに行くけれども、満腹にもなれ、お得感がある。
それぞれ700円弱と利用しやすく、健康にも良さそうなので、外食の際は出来るだけそういう店を利用しようと思っている。
利用しやすい価格での健康食材の提供はそのニーズの高まりであって欲しいと思うんですよね。
若い頃に定年となり、年老いたら、歓楽街や都会の雑踏が身近にある落ち着かない生活から逃れたいという願望の元、買ったニュータウンの我が一軒家、いざ定年になると何もない我が家の街の物足りなさに、若気の至りを悔やんだりする定年男5人。重松清の「定年ゴジラ」の書き出しは、そんな男たちを哀感豊かに書きつづる。
勝ち負けをメンコで決めるメンコ世代と称される小父さんたちと10数年歳が違う僕もメンコの記憶は確かにある。その小父さんたちがみんな負けの現実と向き合う時、やけ酒飲みたくても、飲み屋もない街で、昼日中からワンカップの酒盛りを始め、この街の設計を担当した親父さんは、発売当時、競争倍率が高かったこの街のプレゼンテーションに使われたミニチュアを前に、職場の宴会芸のりで、街を壊しまわるゴジラのまねをやる。やがて、嫌な思い出しかないミニチュアの前に向かおうとした時、小父さんたちは生涯最大の買い間違えのシンボルでもあるこの街のミニチュアを守ろうと、ゴジラ小父さんを必死で止めに入る。
負け人生にも守りたい物はあるとでも云わんばかりの重松清の語りはそうだよねぇと云いたくなる。
悔いのない負け人生の過ごし方を学ぶこの頃。
土日のアルバイトの職場は大まかに云うと60代のアルバイト人員をとりまとめる組と部署をまとめる40代の組、まとめ役が欠勤した際に代わりを務める30代、20代後半、そして現役学生の現場勤務という構成になっているのだけれども、ジェネレーション・ギャップからなのか、それぞれかみ合わない部分があるようで、この仕事を長く勤めている僕としては、どの世代にも組みせずに傍観していると面白い箇所が見えてくる。
昔から世代間のトラブルはよく見受けられ、年とともに身体を動かすのが大儀になってくると若い連中の監視をする事が仕事であるかのように動き、若い世代はそれへの反撥を示すというパターンが繰り返されていたのだけれども、バブル崩壊後は現役学生を終えても定職を持たずに他のアルバイトととの掛け持ちをする俗に云うフリーター化する若者がこの職場でも増えてきて、その若者が先に云ったまとめ役が欠勤した際に代わりを務める30代、20代後半になっている。
この世代は部署をまとめるという責任は持ちたくないというスタンスで、歳が近い現役学生の組と一緒に、仕切りたがる40代の組に批判的だったのだけれども、今年の新入りの現役学生が入ってきたあたりから、現役学生の素性をあれこれいう「オヤジ化」が始まったようで、それぞれの学生の監察報告を仲間内でし始めるようになった。
所帯を維持するために、仕事を掛け持ちする40代の組はまだ社会に対する価値観を持ち喋るけど、フリーターとして生きる30代、20代後半は社会に対する価値観がその関わり度合いから観念的なように感じられ、この世代が「オヤジ化」するとちょっと怖いような気もする。
そして、この世代を巻き込もうとする40代の組がいて、状況は「オヤジ化」増殖の様を呈している。
現役学生に説教がましく云う気もなく、あくまで本人次第と思っている僕は50歳になるけど、別段ジェネレーション・ギャップを感じていないけど、それぞれの部員の問題よりも景気悪化でどんどん変わっていく職場環境に危惧を持っているわけで、「オヤジ化」し、自分の部署だけしか見えないこの世代はやはり怖い。
現役学生の気楽さから抜け出せなかったフリーター世代はバブル崩壊という日本経済の社会変化と相まって、今、社会を知らない「オヤジ化」に向かっているような気がしている。
社会参加しているサラリーマンが社会を知っているかというとそうとも一概には云えないのだろうけれども。
重松清の自殺願望を材とした「舞姫通信」を読み終え、こんな気分の時、「オヤジ化」考察として「定年ゴジラ」を読んでみようかなと。
よりよい老後を迎えるために。(笑)
自分を責め尽くし、疲れ切った女、幻想に悩まされる男、我が子を殺した女、世間を知ろうとしてノイローゼになった男。様々な「精神」を持った人たちが集う処である「こらーる岡山」
その場所を観察するようにフィルムはまわり、小泉政権下で障害者自立支援法がどんな形で自分たちを襲うのか脅える人たちをカメラは捉える。
「心の傷を負った」人たちの悩みを親身に聴く山本昌知医師の人柄にみんなが手を合わせたくなる気持ちは語られる様々なエピソードとその診察風景でよく判る。
「心の傷を負った」ひとり菅野さんの詩は彼らの心を映す一例でもある。
自分の十字架が
重すぎて
たくさんの人に
ささえてもらいながら
生きています
ありがとう
現在、ニューヨーク在住の想田監督はこの映画を通して、障害がなんなのか判らなくしている狭間の「カーテン」を取り去りたかったと語っており、狭間の「カーテン」に固執する日本社会のおかしさ、異常さを描いたのだなぁと思った。
それはラスト近く役所の人間と電話で掛け合うスタッフが狭間の「カーテン」に固執しながらも、狭間の「カーテン」を忘れている役所の人間に浴びせるきつい脅し文句に如実に現れている。
薬をあてがわれ、薬で生き、薬代のためにかけずり回る人たちは支援のさじ加減で生死をさまよう。
「身体」「知的」「精神」の三障害の中で、危険視されながらも、「障害」の支援対象としては一番最後に認められた「精神」は統合失調、鬱、自閉、発達障害、PTSDなど多様極まる障害であり、障害というより人間とは何なのかから見なければならない障害。
置き去りにされた人たちを、小泉どぶ板選挙を描いた『選挙』に続き、想田監督は目をそらすことなく描いている。
加入しているゆうちょの簡易保険で、保険料の前納払い込みというシステムを利用し、6月、12月の比較的支払いやすい時に半年一括払いが値引率も良く、利用しているのだけれども、先月はうっかり忘れてしまい、月替わりの7月1日にゆうちょの窓口に聴きに行った。
入ったばかりの新人さんの対応で、奥で事務処理をしている人に問い合わせ、支払い可能という返答を受け、お金を口座から引き出し、支払おうとしたら、金額が足りないと云われた。
話を聴いていくと、どうも単に払い込み出来るかと窓口も事務処理の方も思ったようで、払い込み出来るかどうかなどという当たり前の事をわざわざ聴く人なんかいないだろうと、人の相談内容をちゃんと把握しない窓口対応にちょっとカチンときたけれども、出勤前の短い時間でもあり、提示された金額が普通に月払いや3ヶ月払いなどと比べて安いのか、高いのかも判らなかったけれども、そんな事を聴くと更に時間を浪費してしまうので、とりあえず云われた金額を支払った。
帰り際、「次回からは忘れないで下さいね」という窓口の余計なひと言に思いやりのなさを感じたけれども、その後、支払金額が高いか、安いか計算したところ、月払いや3ヶ月払いよりは安くはなっていたけれども、半年払いの値引率に比べるとはるかに高い。
6月中の支払いと一日遅れとでは、金額にして3千円ちょい余計な出費となってしまった。
6月末日、払い忘れに気がついた時、職場でネットでの支払いが出来ないか調べたけれども、前納払い込みは窓口でのみの対応のようで、何とも時代遅れな対応と思ったけれども、勤務拘束で身動き出来ない自分の立場の方が時代遅れなのかもと思いもする。
忘れる事で出費がかさむ教訓をまずは身につけた。
『ウェディング・ベルを鳴らせ!』のエミール・クストリッツァ監督が『それでも生きる子供たちへ』の中で作った短篇「ブルー・ジプシー」。
少年院を無事に出所出来た子供が世間の荒波に巻き込まれ、少年院に戻り、監視、管理されている幸福を味わう話は、初め観た時はよく意味が判らなかったけれど、思い返すほどにその意味が強烈なメッセージとして蘇る。
暮らしやすい社会を求めるほどに個人の個性は押し潰され、何か指示されなければ何も出来ない人間しか作らないとは、監視、管理する方もまた同じで、監視、管理が何故いけないかも判らなくなる。
月が変わり、身の回りでも様々な制度上の改変がある。
細かく分別しなければならないほどの多様なゴミの種類を生み出し、その分別が守られていないからのゴミ有料化。加入しているケーブルテレビでのデジタル、ハイビジョンへの放送形式の移行により、画面サイズがワイド画面に無理矢理に変更になるため、画質的にハイビジョン対応になっていないDVDレコーダーでの録画では無駄に黒い部分が多くなるというリスクなど、社会の変化に順応しなければならない自分がいる。
縛られる事を良しとするかどうかは、昔、寺山修司が「奴婢訓」という演劇でご主人がいない屋敷の奴隷たちが、互いにご主人様の役となり、奴隷ごっこに興じて、奴隷となる者は初めはあらがいつつもそのうち、「もっと打って!」とあえぎ始める話があり、不自由が自由であると思い違いをしているのが、現代なのだろう。
大人はまだ縛られるという実感があるけれども、それが生まれながらならば、縛られる事が当たり前と思って当然。
そんな事を思っている時、シュールリアリズムのルイス・ブニュエル監督の「自由くたばれ!」を高らかに描いた晩年作品群が低価格DVDで再販される。
それでも生きる自由を知らない若者たちへ。モラルがゴールじゃないんだよ。