さらりと描くのを得意としている根岸吉太郎監督とねっとりとした脚本を書く田中陽造のミスマッチのような気がする「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」を観た。
太宰治の原作の泥臭さや敗戦後の日本の猥雑さが描かれてはいるんだけれども、物語の筋をただなぞっただけのようなそんな映画だった。
描かれている風情や物語の内容からはカナダ・モントリオール世界映画祭で監督賞を受賞するという栄誉を受けたのは判らなくもないけど、敗戦後の日本の貧困の描かれ方は「ALWAYS 三丁目の夕日」と同じような違和感を感じてしまう。
役者たちが60年前の日本人を演じられなくなっているのかも知れないし、60年前の日本人と今の日本人の違いを意識しすぎた演出のせいかもしれないけれど、60年前の日本を両親や親戚などから聴かされて育った人間としては何かが違うと思ってしまう。
それは何かなと思いながら見ていると、芝居させている松たか子や広末涼子、浅野忠信、妻夫木聡、堤真一、それぞれ今の日本人のままのしゃべり方で、演じさせればいいのじゃないかとふと思う。
「かったりぃ」でも「マジ、むかつく」でも案外「ヴィヨンの妻」の原作には馴染みそうで、一緒に暮らしながらもお互い信じたくて、それでいて信じられない、そんな夫婦の物語は例え抑えた演出であっても時代がかったものになってしまった映画よりもリアリティがあるんじゃないだろうか。
「女には、幸福も不幸も無いものです」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
太宰治の魅力って、死にたがっているくせに、生きている事に意味があると書く矛盾であるのだし、それは今の日本人の幸福ごっこと同じだと思うのよね。