2012-07-24

311

東日本大震災の3.11から500日。

震災2週間後、フクイチ原発の立入規制地域にカメラを持ち込んだドキュメンタリー作家の連中が岩手、宮城の津波被害の被災地に向かう。

ネットでも非難を浴びているドキュメンタリー映画は軽率なドキュメンタリー作家たちの愚かさが繰り返し描き出される。

原発の立入規制地域でガイガーカウンターの数値が跳ね上がる中、運転する車のタイヤがパンクし、黒い雨を浴びながらのタイヤ修理。

津波被害にあわれた方々に行方不明になった子供らを思う気持ちを問う作家たち。

更には亡骸をカメラに納めようとして、被災者たちに詰め寄られる場面。

こんな報道取材をする奴らがいるから被災地は迷惑するんだ。

そんな批判をこの映画の作家たちは計算の上、この映画を作ったのだろう。

被災者の立場をどこまで報じられるのか。は、被災しなかった者はどこまで被災地を理解出来るのか。だろう。

何本となく観てきた3.11関連の映像は観る者に被写体を類型化させ、悲劇のパターンに当てはめてしまう。

その怖さを僕はこの映画で感じたし、最後に流れる東京地区の被ばく線量を報じるラジオは「それでも何でもないでしょう?」という安堵の価値観を植え付ける役割であるかのように聞こえてしまう。

東日本大震災の3.11から500日。

次の災害の被災地の映像は震災と比べてという価値観で観るだろう。たとえ被災者にとって初体験の事であっても。

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