政府の世論調査も週刊誌並みになってきたなぁ。
『「妻は家庭」反対が初の過半数』なんて女を如何に企業戦士にするかの口実作りとしか思えない。
世論調査は世論操作。
日本人は当事者の事情を考えずに、器となる社会を考えてしまう。
問題なのは何故「妻は家庭」反対かなのに、「妻は家庭」反対ならばと先読みする事。
「いいじゃないの幸せならば」
1970年代、昭和元禄の脳天気の方が余程平和であったんじゃないかな。
- OhmyNews : いいじゃないの幸せならば
政府の世論調査も週刊誌並みになってきたなぁ。
『「妻は家庭」反対が初の過半数』なんて女を如何に企業戦士にするかの口実作りとしか思えない。
世論調査は世論操作。
日本人は当事者の事情を考えずに、器となる社会を考えてしまう。
問題なのは何故「妻は家庭」反対かなのに、「妻は家庭」反対ならばと先読みする事。
「いいじゃないの幸せならば」
1970年代、昭和元禄の脳天気の方が余程平和であったんじゃないかな。
書類の吟味は機械的には出来はしない。
司法判断も人間のなす技。
吟味せずまま、執行したがるのは単なる国家リンチ。
鳩山法相、静香おじちゃんが云うまでもなく、やっぱりあなたは人でなし。
法相の仕事、ちゃんとしろよ。
処刑された愛犬の遺骨をばらまき、桜を咲かせた花咲爺。
「死」の尊さを忘れたら、死ねないドラキュラになるだけなのに。
ここで連句。
刑務所民営化、囚人はお客様。
刑務所にコンサートを聴きに行こうツアーも行われているご時世なのにね。
病気のガンについて、皆さんはどのような認識をお持ちだろうか?
拙者掲載記事『「余命告知」という病』に寄せられたコメントに刺激受け、ガン治療で知り得た知識をご呈示したい。
私の母は乳ガンとなり、片方の乳房切除をしたのだけれど、発見時、本人が乳房に出来たしこりを揉みほぐし、しこりを拡散させてしまった事もあり、数年後に再発し、全身転移の末、膀胱と眼球以外全部ガンになりました。
しかし、ガンでは人は死にません。弱り切った身体に呼吸も苦しそうだったために、医師がのどに呼吸機器を取り付けようとしたところ、たまっていた膿が吹き出し、呼吸器に流れ込んでの窒息死でした。
ガンに関して、近藤誠医師の『成人病の真実』では発症原因が解明されていないと指摘されており、だから、治療法も延命のための薬物や放射線治療しかないのだそうです。
ポリープ切除がガン予防の治療の一環としてなされているのだけれども、良性ポリープが悪性に変わるケースは医学データとしてほとんどなく、予防治療の名目で切除されていると医学データを並べ論じられており、悪性のガンの発生は実のところ、交通事故と同じく偶然的に発病すると思った方がいいらしいく、『放っておくとガンになるかも知れない』といい、患者の自己判断にゆだね、手術を暗に薦める医師はアブナイのだそうです。
日本ではほとんど行われていない海外のくじ引き治験ではガン予防を気にしながらの生活習慣と全く気にしない生活習慣とでは、気にしながらの生活習慣の方がストレスで短命になるというデータもあるらしいですし、ガンの場合は予防治療からして、これが万全というものは存在しない。
そして、ガン治療にとって余命告知云々よりその治療法の選択が患者にとっては大切である事を提案したフランス映画『ぼくを葬る』では副作用多すぎる薬物治療を拒み、天命を待つ主人公が描かれれてたりもしました。
わずかでも長生きできるかも知れないけれど薬害に苦しむ薬物治療と天命を待つ余生、余命のデータではそれ程大きな違いはなく、医師の懐具合が変わるだけのようです。
『「手術」と「薬」に頼る医者を信じるな』が病院選びのポイントでもあるようで、ガンという余命を如何に過ごすかという病気は治療医学の問題点がもっともよく判る分野でもあるようです。
小児ガンの病棟を10年のサイクルで撮り続けている伊勢真一さんの著書『かんとくのつぶやき』で、仲間がポツンポツンといなくなる小児ガン病棟の子供達のキャンプの様が綴られているのだけれど、病棟の子供達の生きている証を残そうとする医師と伊勢さんの対談は如何にガンと向き合う子供達と接するかを語っている。
余命わずかになった時、どのように生きたいか知る事はけして無駄な事ではないだろう。
先週から通っている歯医者。
カレーハウスCoCo壱番屋の閉店後に出来たからなのか、「ココ歯科」
小さい歯科なのに非常勤の歯科医師が3人もいるというなんとも不思議なところ。
疲れてくると歯茎から出血していたのだけれど、被せていた歯がとれたのをきっかけに通い出した。
案の定、歯茎の腫れやら、虫歯やら、治すところは山ほどある。
以前通っていた歯医者の下手な処置で噛みにくくなった歯もあり、おそらく長くかかるのじゃないかな。
今日は奥の親知らずが虫歯になっていたから抜歯した。
小さい頃から、歯は不健康で、歯医者通いの常習。
今度の歯医者はいい歯医者だといいのだけれど。
久々、ナンバーズ4、GET!
昨日の8852、BOX当選。
以前、当たっていると早とちりしてぬか喜びした経験有り、銀行に当選金振り込まれるまで半信半疑だが。
ちょうど春の稼ぎ分の蓄えも心細くなってきた頃、8万5千円の収入は助かる。
ずっとひとつの番号に固執した甲斐があった。
この番号で買い続けるかが悩まれるこの頃だけど。
収支で見ていけば、やっと暗証番号が合って、貯金を引き出せた感じ。
おろせて良かった。(笑)
死刑執行に関わる人たちを知っていますか?
鳩山法相が「法相が絡まなくても自動的に客観的に進むような方法」などという発言をされるほど、死刑囚の増加が問題となる日本。
案外、死刑執行の実態は知られていないのじゃないだろうか。
法相の判断がどのような形にしろ執行命令が下ったならば、死刑執行に関わる方達の職務が始まる。
処刑を行う死刑執行職、死刑囚の最期を見取る医師や牧師、お坊さん。それに墓掘り職人もいれば、火葬場職員もまたいる。
人が死ぬ時、看取る人たちは数多くいて、死刑囚もまた立ち会う人たちも同じほど多くいる。
そして、普通の死とは違い、汚物を吐き散らし、死んでいく様を立ち会う人たちは立ち会わされる。
法の名の下の処刑は、自殺と決定的に違うのは立ち会う人たちの数である。
死刑囚に自殺は許されない。あくまで処刑されなければ、刑は執行された事にはならないから。
それはアメリカ黒人のリンチの末、木の枝にぶら下げられた奇妙な果実でもそうであり、アウシュビッツのユダヤ人のガス室も苦しむから処刑になり得た証である。
「死刑」は「死」の恐怖を味合わせる「刑」であり、「刑」を行った後の「死」は弔いである。
例え、アメリカ黒人の奇妙な果実やアウシュビッツのユダヤ人のショベルカーによる遺体処理であったとしても、鳥や虫や獣たちがその肉を喰らい、ウジがわき、土に帰っていく。
日本は名もなき罪人の亡骸を弔い、墓標の代わりに桜の木を植えたという。花咲爺のお話のように桜の森の満開の下、罪人たちは眠る。
罪人の咎を責め、社会秩序を顧みない村人たちはその遺族に対し、出産と葬儀以外は付き合わぬ村八分の生き地獄を味合わせ、責め殺したとも云われる。
村人たちの願いを聞き届けた役人はいつの世も浮き世に生き、自分が死ぬ時、看取る人の多さに始めて気がつくものである。
「死刑」は死ぬ恐怖を味合わせるためのいたぶりであるから、極刑と呼ばれるのであろう。
極刑で加害者は口を封じられ、事件の社会的背景は問われることなくなる。
先日、とある医師の新聞コラムで、数日でも難しいのに、数ヶ月単位での余命告知など科学的には不可能な事という記事が載っていた。
そして、医療現場で行われている多くの余命告知は経験値から算出される物で、患者や家族の気持ちの区切りから望まれる物なのではないかというような事が書かれていた。
日本の医療の問題点が書かれた近藤誠医師の『成人病の真実』(文藝春秋)も似たような話が書かれており、高血圧やコレステロール対策に気配りする「余病検診」や良性のポリープでも不安という心理からなされる切除手術、世界的に見ても異様な薬依存が強い日本など、「健康」のためならいくらでもお金を費やす日本人の不思議な体質が、その根底にあるように思えてくる。
血圧などは日本人の平均値などは欧米の牧畜民族とは違い、農耕民族であるために、塩分を多く取る生活をしていたために高い数値になるわけだし、例え、平均からみて、高い値を示していたとしても、その人の平常時の血圧値から比較しない事には高血圧なのかどうかも判らなく、コレステロールなどもそれ単独で判断下すには危険である事は昨今よく知られている事象でもある。
医師に対する過度の信用がはっきり断言できるはずもない余命告知を云わせている事の裏返しとして、根拠のないポリープ切除や薬漬け治療など医学界を白い巨塔にさせたのであろうし、「余病検診」さえ歳を取れば、誰だって悪いところが出てくるのが当たり前なのに、それを「病気」にしてしまう「健康病」が問題であると近藤誠医師は指摘もしている。
欧米では患者の判断を重んじるインフォームド・コンセントが注目されているけれども、自分の健康、医者任せの日本に果たして「正しい情報を得た上での合意」が成り立つのかははなはだ疑問でもある。
余命告知も勤労奉仕に差し障らないよう気配る「美徳」のような気もしてきますし。
金曜日の猛暑も束の間、日曜の朝は放射冷却で寒い朝。
猛暑をもたらせたラニーニャ現象は厳冬をももたらすと云うけれど、その前触れなのかしら。
はかない命を知るスズメが暑さしのいだ一時を楽しむ如く、家の前の電線にとまっている。
今日は一枚多く羽織って出かけよう。
イランのアッバス・キアロスタミ監督が作った『クローズ・アップ』は偽名を使った詐欺師が裁きを受ける話。その男が刑を終えた時、偽名を使われた著名人が刑務所に出迎えに行き、その詐欺師は大泣きをする。
「裁き」が大切なのではなく、如何に「許すか」が大切なのではないかを描かれた映画でした。
殺された被害者を想い、極刑を求める被害者遺族。
後を絶たない殺人事件の死刑判決を聴く度に「死」は極刑なんだろうか?と想う。
仏教では此岸と彼岸の教えがある。
この世の罪をあの世に送るのは亡くなった者たちを顧みぬ行為。
ゴミ捨て感覚で「死刑」があるなら、亡くなる事も「裁き」になってしまう。
此岸と彼岸の橋渡しである地獄修行はその人の生きてきた生涯を再体験させる「この世の地獄」を思い知る修行。
「この世の地獄」は間引きでは何も解決しないのに、「極刑」を持って解決とさせてしまう。
「一つの殺人は悪漢を生み、100万の殺人は英雄を生む」
チャールズ・チャップリン『殺人狂時代』(1947年作品)は「極刑」の無責任さを批判し、映画の中で、処刑される殺人鬼に「あの世で待ってますよ」と語らせる。
この世も地獄なら、あの世も地獄。
そんな世界を望むのがこの世の社会なのかも知れない。
『死刑執行人もまた死す』
忘れてはならぬ事。
38歳になる従弟がガンで亡くなったと知らせが入った。
遠方に住んでいたので、直接の想い出はそれ程深くはないけれど、父の葬式の時、子供の頃、札幌に遊び来た時、新聞配達をしていた僕の手伝いをした話をしていたのを思い出す。
イケメンで格好いい男になり、三人の子供にも恵まれたのに、ひと月あまりの入院であっけなく死んでしまった。
息子に先立たれた伯父は「寿命だから」と母に電話で話していたという。
人の命のはかなさ。
紅花落水、生きてるうちが花
生きる事を楽しみたい。
レンタルビデオのとあるチェーン店で、戦前の松竹映画のビデオを見つけた事から始まったビデオ屋巡り。
今は文教堂になっているけど、一昔前は「本の岩本」のチェーン店だったショップは札幌の地下鉄沿線から更に数キロほど離れたところに点在しており、しかもお目当ての戦前の松竹映画のビデオはそれぞれその店にしか置いていない物もあるという宝探し。
ようやく東西南北、札幌市内を駆けめぐりも今日の最後の一軒で回り終える。
体系的に日本の戦前、戦中、敗戦間際を映画で観られ、徒労に終わらなかった。
おそらく、今後、バブル期のような世界中の名作と呼ばれる映画が復刻される事は、余程の映画マニアの企業が現れないと日本では無理でしょう。
今のうちにレンタルビデオで観られる物は観られるならば観た方がいい。
与える自由ばかり重んじ、選択の自由を軽んじる風潮は、無関心を助長し、「知る権利」を疎外する。
遠景と近景がぼけることなく映し出された名画『市民ケーン』すら、ピンぼけフィルムでの復刻しか日本ではされていなく、戦時下のラブストーリーの名作『哀愁』も正規の復刻はなく、パブリック・ドメイン任せという状況。
権利関係が複雑な映画業界だからと云うにしては、欧米のDVD復刻はやはり羨ましく、バブル期のジャパン・マネーも今よりは社会貢献に努めていたと、うちの街に残るレンタルビデオの品揃えを観て、思いもする。
古い日本映画と共に何故か復刻されないポーランドの抵抗映画の数々を捜し観るこの頃。
財政難で新刊を購入出来ない、問題となっている図書の閲覧を禁止する、借りた本を切り抜いたり、破いたりして返すなどなど図書館を巡るニュースも同じく気に掛かるけれども。
#映画監督は”著作権者”ではない?!、書き改めました。
母が具合悪い時とかによく利用していたお弁当屋さんが閉店した。
30代くらいの夫婦二人で経営していたのだけれど、食材費などやりくり付かなかったのかな?
テレビなんかでも紹介されたらしく、結構流行っていたのに。手作りの店がまたひとつ消えてしまった。。。
映画制作の資金繰りに苦労され、テレビのワイドショウに出たり、海外の評価に願いを託した頃の大島渚作品『戦場のメリークリスマス』。
映画=物語的なニーズを持つ日本では賛否別れるところであったけれども、ディスカッション作家大島渚は、日本、英国というナショナリズムの激突の馬鹿馬鹿しさが、本来日本人が持つ他者との協調の美学が、むしろ進んで捕虜になる英国人にあった事を描いている。
映画が公開された年1983年、僕自身スタッフとして参加したさっぽろ映画祭にて、大島渚の過去の作品群を上映する企画を組み、その時、ご本人も来られたのだけど、舞台挨拶の時、大島さんは「古い作品をこうやって上映してくれて、ありがとう」と感涙し、言葉詰まらせておられた。
海外資本の元での映画制作の苦労なのか、力になろうとしない同胞人の非情さへの悔しさなのか、今だ判りかねるけれども、舞台で男泣きした大島渚を僕は見た。
Merry Christmas, Mr. Lawrence
あのビートたけしは寂しき地球人、大島渚なのかも知れない。
現在、大島渚が権利所有する映画のDVDは残念ながら、国内廃盤、レンタルビデオを捜すしか観られる機会はない状態。
アメリカのレッドパージに合い、亡命。
ヨーロッパ各地で名作を撮り続けたジュールス・ダッシン。
ギリシャに住み着き、女優メリナ・メルクーリとの蜜月時に撮った『日曜はダメよ』はアメリカメジャー配給網で作られた映画で、DVD化もされているのに、日本国内は未発売。
バブル時に出されたレンタルビデオを探し出すしかないけれど、メディア系で攻勢強めていたフジサンケイグループに余力ない今となっては、ネットバブルの映画愛好企業の良識に頼るしかない寂しい現状。
愉しい映画なのに、言語隔離の環境下、気軽に観られず、昨夜の激しい雨のように泣けてくる。
【「黒澤監督も映画著作者」廉価版DVDに販売差し止め命令】なるニュース記事が目にとまった。
判決を下した市川正巳裁判長は、これより先の判例である「チャップリンDVD著作権侵害」の判決(東京地判平成19年8月29日(H18(ワ)第15552号[PDF])に準拠したのだろう。「著作権は、監督が死去した98年の翌年から38年間存続する」として、販売差し止め命令した。
しかし、映画に関しては、1971年に「映画の著作権は映画製作会社に帰属する」と著作権法が改正され、映画監督は著作者として「著作者人格権」(同一性保持権、氏名表示権、公表権)があるけれども、著作権者としての「財産権」はないとする配給側に有利な法令文があり、日本映画監督協会は法改正を求める活動を行っており、「著作権について」にて、その仔細は記されている。
おそらく、黒澤明作品の映画に関しては監督のご子息が黒澤明作品の権利を所有したがために、「監督が死去した」云々という、チャップリンの遺族がフィルム管理を委託した会社のケースと同じように、判決を下されたのだろう。
けれども、この判決によって、DVD販売会社「コスモ・コーディネート」が発売された他の映画作品も販売差し止めになる事だけは避けて貰いたい。
DVD販売会社「コスモ・コーディネート」が発売した作品は、黒澤明作品以外には世界的に日本の名監督と知られる小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男などの作品も含まれており、スペインで発売されているのに、国内の正規版が発売されていない成瀬巳喜男の『おかあさん』や国内正規版では単品発売されていない戦前の小津安二郎作品など、DVDの時代となり、観られる機会が得にくい物も含まれている。
日本の古い映画がマニアの間でしか関心向かない実情にあぐらかく映画会社に一喝するために、黒澤明作品を目玉に、廉価版DVD30枚が発売されたものと好意的に理解したいし、広める努力を怠る映画会社の怠慢の方を問題にしたい。
日本ではなかなか広まらないパブリック・ドメインは、欧米では常識となっているもので、映画に関しては公共資産として制作50年を経た作品は、誰でも自由にコピー配布していいとするもので、Public Domain Movie Torrentsなる合法的なサイトもあるほど、文化資産の継承を重視する物である。
ただ、ミッキーマウスしか売れるキャラクターを作れなかったディズニーが著作権を50年から70年に延ばせなどという駄々っ子を云いだし、法改正にもなったミッキーマウス騒動なんて云うのもある訳で、文化が個人の物なのか、社会の物なのか議論が絶えないところでもあるのだけれども。
今回、黒澤明作品が話題の中心となりはしたものの、黒澤明に対する1970年代の日本の映画会社の冷遇は国際的文化損失とまで揶揄される出来事であり、黒澤明が晩年、旧ソ連やアメリカ資本で映画制作をされたのは有名な話である。
その黒澤明作品もご子息が経営する会社が保存状況が悪い戦時中の作品の復刻など丁寧なデジタルリマスターを施し、しっかりした解説付きで、DVD発売した経緯などもあり、その販売を任された国内の映画会社にとっては、古い映画で商売になりにくい実情、唯一の「稼ぎ頭」を奪われるのは痛いところでもあろう。
しかし、国内文化の過去の遺産を普通に接しにくい環境を作ったのは映画会社であり、二次利用の用途が、テレビ放映、ビデオ販売とニーズが大きくなるにつれ、その「財産権」をクリエーターと分かち合おうとしなかった失点は大きいし、欧米が早くから「文化遺産」として映画や音楽のアーカイブ化に積極的であったのに対し、日本は「売り切り」感覚しかなく、話題作以外の作品の保存状態も格別ひどく、「雨」の降る映像は「復刻したくない」という本音も見え隠れするのではないか。
また、企業保護の圧力が法案化にまで影響していると云われてる「再販法」や国内の価格保持を名目に、国内でまだ正規復刻されていないのに、パブリック・ドメインとして出されている中国、香港、韓国などの古い日本映画DVDが輸入禁止にされているケース、在日問題を果敢に取り上げたやくざ映画『やくざの墓場 くちなしの花』がアメリカで売られているのに、日本では売られていないケースなど、世界では簡単に入手できるのに、日本国民が古い日本映画が気軽の観られない状況が多々存在したりする。
庶民にも安く文化を親しんで貰う天井桟敷がそれを下地とした文化人を生み出すとする欧米の「種まき」の発想がインターネットを生み出し、文化の後継を模索する時、既存の販売ルートを保持しようとするだけで、クリエィターの権利や文化の社会的価値を高めようとしない「文化」はやはり「亡国的」で危ないような気がする。
1960年代にフォークソングに代表される過去の文化再発見を行ったアメリカも、体系的な文化史が語られることなく、ショウウィンドウ化された過去の文化物展示のみが横行していると嘆く声も聴かれるそうだけど、過去の文化物を顧みる機会さえない我が国においては、著作権という暴力に脅えながら、刹那的になるしかないような気がする。
”著作権者”となれる投資家になった時、日本には海外に売る文化があるのだろうか?
安倍ちゃんが入院した病院だかの記者会見のニュースなんか観ると、医者いらずの薬漬け治療がなされているようで、この国の薬物依存、自然治癒軽視はまだまだ改善されていないよう。
そして、安倍ちゃんに限らず、同じ症状の機能性胃腸症が一国を背負うわけでもない凡人にも激増しているらしい。
おそらく基礎体力低下という事から来るのだろうから、感染系の病気などが流行ると恐ろしい事になる。
1950年代、僕が生まれた時に流行った小児麻痺のように。
アメリカのウサマ・ビンラディン有効活用の悪知恵が我が国にも飛び火したようで、『政府内「テロとの戦い」説く意見相次ぐ』とのニュース。
借金でこしらえた金しか持っていないで、食糧自給率も減る一方の国家が「テロとの戦い」とは笑い話にもならないけれど、真剣に「テロとの戦い」を説くブラジル、カエターノ・ヴェローゾの歌に「爆弾男(Homem Bomba)」(アルバム『オレは謝らない』収録)がある。
爆弾男がやってくる
何もおそれぬ男が
なぜなら まもなくやつは
エグンとなるのだ。だが、それまでには一人殺し二人殺し
千万以上もの人を殺す
何も後には残さない
だが俺は この苦悩のイデオロギーには反対なのだ
俺は投資に賛成だ
貧窮を撲滅するためには
学習と調和のとれた労働に賛成だ
愛とクリスト・ヘデントール(救世主)に
民主主義に咲く詩情の花に
有効な金の使い道を模索せずに安易な軍需投資にひた走る先進国。
『男と女』のピエール・バルーがブラジルで撮ったドキュメント『サラヴァ』で田舎のじいさんアダン・グザレパラダが「テロリストは何故バチカンの銀行を襲わない。悪ふざけはやめよう。」とシニカルに笑う。
先進国の首脳たちは如何に世界を分断するかしか考えていないのだろう。
カエターノ・ヴェローゾの新譜も出るようで、ボクちゃん、財布が痛いけど。
温暖化に無知とも云われる政界首脳のそろばん勘定をよそに気象異変は確実に進行しているような気配。
いまに食うものがなくなる日がくる。
その時、泣きながら、この絵本を読もう。
北野武が帯コメントを書いたという岡林信康先生の絵本『ぼくの村は美しい国 竜太の日記』でも買って、作り話ではない実録版”人間の幸福(ひとよのさいわい)”を思い返してみようかな。
”ひとよのさいわい”という言葉は、幸田露伴が明治31年に20世紀の子供たちのために書いた「文明の庫」からと云う事。
「岡林信康 コンサート2007 Next Stage」なる新聞記事を見つけて、さっそく街のプレイガイドへチケットを買い求めに行った。
街に出て、新聞社関連の主催というのを思い出し、新聞社の中にあるプレイガイドの方がいい席がありそうな気もして、そちらに向かう。
けれども数年前にプレイガイドがあった場所は社屋の資産有効活用なのか某銀行が使用しており、プレイガイドの移転場所の明記もない。
しかたなく、同じビルの中にある「文化センター」なら判るかもと思い、エレベーターで「文化センター」のある階へ行くけれどもプレイガイドはなく、プレイガイドのある場所を教えて貰う。
教えて貰ったとおりにそのビルを出て、隣のビルに入り、教えて貰った新聞閲覧室を確認、その隣かなと思ったけれども、そこにはプレイガイドはない。
いい加減、いらだってきて、その並びにある新聞社屋の受付の案内所に聴くと、ビルを一旦出て、表通りに面してプレイガイドのドアがあるとか。
やっと見つけたプレイガイドに入り、チケットを申し込むと座席表が出されたのだけれど、老眼未満の裸眼のボクちゃんには座席表の細かい座席番号がよく見えない。
岡林のおっちゃん目当ての団塊世代もこんな苦労をするのかなと苦笑い。
我が身を通して、判断力はじめ、年老いた事を感じされもしたけれど、合理化進めて、案内板の配慮もしない若作りの老舗ビルに不便を感じもする。
同じ日、ネットチケット販売とナウさが売りの中島みゆきコンサートは無情の抽選落選のお知らせメール。
当たったとしても主催側の勝手な席決めよりプレイガイドはいいよなぁと負け惜しみながら思ったりもする。
利用者の利便はいつまで経っても変わらないのかも。
今晩は、職場の懇親会。
会社が主催で、うちの職場の親睦会に賛助金まで頂けるありがたい飲み会で、メイン業務のおばちゃん200名にうちら脇役も参加の本当の懇親会。
仕事は職場環境にありをモットーとしているのかアルバイト依存で成り立っているうちの職場はこのような催しが多々あります。
懇親会に先立ち、親睦会最大のイベント、忘年会の準備も始まり、いよいよ時節は秋。
人の繋がりが仕事を生む。発想の源は人の繋がりというポリシーを忘れたくないですね。
忘れたから、うちの職場の売り上げは下がったのだけれど。。。。
昨日、叔母から電話が来て。
「台風来たかい?」
「まだ来ないわ」
今朝、母との会話で。
「台風来たのかね?」
「行っちゃったんじゃない?」
何事もなく良かったけれど、油断の罠は深まるばかり。
「50年後」の温暖化警告と同じかも。
今日から市民メディアサミットが札幌から始まるというのに、首都圏を颱風が直撃とか。
来札の足に影響でなきゃいいのだけれど。
僕は明日の今野勉の基調講演だけ参加しようかと思うのだけど。
幸福な結婚をしたからゆきさんを描いた獅子文六の『南の風』の戦前映画化されたものを観ているのだけれど、「南の風」は単に暖かなだけじゃないね。
田村高廣、田村正和、田村亮の父であり、日本映画創成期から戦争の動乱を経て、戦後復興期にかけて、娯楽など何もなかった日本に日本人の美しさを演じ続けた男、それが阪東妻三郎でした。
阪妻という通称で親しまれた阪東妻三郎の戦中、戦後の名作二作が数年前に出されたDVD-BOXから単品発売される。
一つ目は、戦時中に伊丹十三の父、伊丹万作が岩下俊作の原作「富島松五郎伝」を脚本化し、自ら病弱のため、メガホンを撮る事が叶わず、朋友、稲垣浩が監督した『無法松の一生』。
無学な車夫が帝国軍人の遺族に想いを寄せ、か弱い母子に献身的に尽くす物語は、戦時中、車夫が未亡人に想いを打ち明ける場面を「淳風美俗」に反するという理由から内務省による検閲によりカットされ、戦後、民主主義を与えるはずの占領軍GHQにより、息子が学芸会で「青葉の笛」を歌う場面が、軍国主義を思い起こすということでカットされる。
権力の手により、二度までもずたずたにされた映画は、その後、未亡人を演じた園井恵子が、軍隊慰問公演などの移動演劇隊"櫻隊"に参加し、広島で被爆死し、戦後まで生き延びた伊丹万作も手のひら返しの戦争犯罪告発の風潮に対し、「戦争責任者の問題」を執筆の後、精神薄弱児を描いた『手をつなぐ子等』の演出も叶わず、敗戦の翌年厳しい暑さの中、「病苦九年更に一夏を耐えむとす」と句を詠み、無念の死を迎える。
無学を恥じ、「オレの心はきたない」とつぶやく無法松演じる阪妻のひたむきな献身ぶりは幾度となくカットされてもなお、日本人の美しさを誇りにしようした故人たちの遺影のように強く光り輝いている。
二本目の『王将』もまた、世情に翻弄された敗戦直後、チャンバラ劇は作ってはならぬとのGHQの命令により、時代劇の神様でカメラを移動撮影するのを得意としていたために、「イドウダイスキ」とあだ名され、伊丹万作の臨終にも立ち会った伊藤大輔が撮った現代劇。
大阪通天閣の街、新世界に暮らす将棋一筋の坂田三吉を描いたこの映画もまたオーバーリアクションの阪妻の演技で支えられもした。
市井の庶民の哀歓は、羽振りの良い時には持て囃し、ひとたび落ち目になると彼を見捨てかえりみようとしない世間の表裏、人情のどんでん返しを描いたこの映画は「卑賤の肉体に光る高貴な魂」と評されもし、戦前からの美しい反逆児である阪妻と伊藤大輔監督はそのまま、坂田三吉でもあった。
阪妻の出世作であり、阪妻がフィルムを所持していたため、奇跡的に完全版が残っている『雄呂血』、活劇映画そのものの『血煙高田馬場』などの戦前の名作はまだ復刻されていないが、市井の庶民を演じさせたら天下一品だった阪妻、演ずる日本人は今でも観れば、郷愁を誘う事だろう。
日本が始めて作った国際規格として、高齢者・障碍者に配慮した国際指針「ガイド71」がJIS化されたのは平成15年3月19日。
世界でも少子高齢化が最も顕著であり、福祉の管理を政権基盤に影響されないように、NPO、NGOに委任する欧米とは違い、国が直接管理する日本だから実情を鑑みて、提案できる指針としてISO/IECにて採用された物で、個別のガイドラインの基準となるものでもある。
その「ガイド71」では高齢者・障碍者の不便さを「障碍」とは云わずに「人の能力」と云う視点から「感覚」「身体」「認知」「アレルギー」として区分し、それぞれ出来ない事、出来る度合いがあるのが人間としている。(『ISO/IECガイド71』に示された7つの分野の考慮事項(マトリックス))
今までの「健常」という視点がある意味、機械的生産的であったのだろうし、多様な価値基準として「人の能力」が採用されたのだろう。
同じく「知的障碍」と単に一括りにされていた障碍も、パラリンピックではここからが「知的障碍」と断言できないとして、競技種目がなくなったりしている。
機械的生産的な社会から「人の能力」を思いやる社会への提案ではあったのだけれど、「ガイド71」提案国でもまだまだ「障碍」に固執して、「人の能力」を考慮するだけの厚生労働の政策は出されておらず、いつの間にか今までの「機械的生産的」な社会に「人の能力」を組み込み、「合理化」を考えているような厳しさを求める風潮もこの頃見られる。
ラテンアメリカ文学諸氏の短篇集『美しい水死人』に、アルフォンソ・レイエス「アランダ司令官の手」という小品があるのだけれど、そこで「利き手」について、こんな考察がなされている。
「手が二本とも利き手だったら人間は巧妙な策略や器用さに溺れてすでに滅びていたかも知れない。」
「人の能力」を世界に提案した国は自身の提案を理解することなく、温暖化促進を行うのかも知れない。
短篇集『美しい水死人』後書きにはこう記されている。
「肉体に意味はなく、魂に意味がある。しかし、その魂も死と共に失せるものであり、超自然は生き霊のなせる技」
元共産党員だった作家、井上光晴の原作をこの春亡くなられた映画監督、熊井啓が低予算の自費映画制作として知られたATGで作られた名作。
被差別部落と被爆者部落の確執がある強姦事件から燃えさかり、怒鳴り込みに行った被差別部落の女に被爆者部落の石が飛ぶ。
弱者と弱者が罵り合い、事件を告発した者もまた怒鳴り込みに行った女に石を投げる。
鶏を食い殺した大量のネズミがガソリンの炎で一瞬のうちに焼かれる映画のオープニングの残虐さは人間が行う残虐さである事を浮かび上がらせ、投げられた石で血を流し、死ぬ女の姿は、昨今のいじめ虐待の一連の報道を想起させられる。
「肉体に意味はなく、魂に意味がある。しかし、その魂も死と共に失せるものであり、超自然は生き霊のなせる技」
ラテンアメリカ文学諸氏の短篇集『美しい水死人』の後書きをふと思い出す。
弱者はいつになれば弱者を理解するのだろうか?
封印された日本の現代史に横たわる「トラウマ」の石が今も飛び交っている。
石原裕次郎が遺言でビデオ化を禁じたと云われる熊井啓監督、石原プロの作品『黒部の太陽』も観たいけど。
週明け、天気予報の雨降りも霧雨程度ですんだけれど、気温がぐっと下がり、過ごしやすかった。
7、8年前、夏の疲れからか朝、起きがけの大きなクシャミで起き上がる事も出来なくなり、それから一月半掛けて歩けるまでになった事があるのだけれど、左足から左肩にまで連なる変ないずさが今も残っている。
変ないずさも凝りがほぐれて来たのか、このところ、その筋が判るようになっていたのだけれど、今年は猛暑の疲れなのか、トラブルの軸となっているような脊椎の場所が判るようになった。
7、8年前、病院にかかった時は椎間板ヘルニアになりかけと診断されたけど、脳性麻痺に現れやすい脊椎ヘルニアの軽い奴なんじゃないだろうか?
涼しさが増し、夏の疲れが現れやすい時期、ここで無理すると後々大変な思いをするのは自分。
夜長の秋に体を休めるのも自分への思いやりのような気もする。
猛暑の疲れにご用心。
昨今話題の相撲ネタには全く興味がないのだけれど。
数日前の新聞になぎら健壱が小樽でコンサートをするという広告記事を観て、幼き日の記憶が甦った。
アルバイトで一緒の60代のおばちゃんはこの曲を知らないと云う。
遅れてきたフォーク世代だから、記憶にあるのかな?
まだこの曲は放送禁止なのだろうか?
フォークの語り部、なぎら健壱は今もこの曲を歌っているのだろうか?
小樽のコンサートを見に行きたい気もする。
私はかつてあの様な 悲惨な光景を見たことがない
それは10年以上も前の 国技館の話です片や巨貫の雷電と 片や地獄の料理人若秩父が
両者見合って待ったなし ガップリ四つに組んだその額からは
玉の様な汗がダラリンコンと流れだして来て
若秩父のマワシをしめ出すのだったこのしめったマワシがいずれ あの不幸な事件を巻き起こすとは誰しも
あの 世にも恐ろしい戦いになるとは 誰しも思わなかったのだ全く引力とは恐ろしいもので
地上に浮いている物は 下へおっこちてしまうのだから
アレヨアレヨと思う間に若秩父のマワシは 落ちたさすが天下のNHK すぐにテレビカメラを消せと命じたが
折りも悪くもアルバイトを使っていた為に アップで放映してしまったのだラジオのアナウンサーが又、アナウンサーで
テレビを見てない人にはわからないものを
すぐにお近くのテレビのスイッチをひねって下さい等と言ったものだから
見なくてもいい人まで見てしまったのださすが天下の国技館 すぐに照明を消せと命じたが
折りも悪くもパートタイムをつかっていた為に
スポットライトをあててしまったのだ全く全国3万人の相撲ファンの皆様は 意外な事実を知ったのだ
でっかい身体にゃちいさな●●●がつき物だと
そういう事実を知ってしまったのださすが木村庄三郎
あの ソウ うちわみたいなヤツでかくそうとしてやったが
彼も非常に興奮していたもので
股間をイヤという程 軍配でなぐりつけてしまったのだその時彼の脳裏には 一つの言葉しか浮かばなかった
その時彼の頭の中には 一つの言葉しか浮かばなかった何か身体をささえる物はありませんか 何かつかむ物はありませんか
何かつかむ物はありませんかと 目をこらして見たら
目の前にあった私はかつてあの様な 悲惨な光景をみたことがない