2007-10-20

罪と罰 Crime and punishment

オーマイニュースで亀井静香氏の「死刑廃止論」

ぶら下がりコメントを書こうかとも思ったけど、保留扱いの記事を書き直して、投稿してみた。


罪を犯した時、どこまで裁けるのかは古今東西の問題であり、「死」は「生きる苦しみ」からの救いとする宗教観からすれば、「死」は「刑」にはならない。

「死の恐怖」を味合わせるのが「死刑」であり、「死刑執行」は「死の恐怖」を味合わせるために犯した罪を認めさせてから行われるという。

そうでなければ、国家が殺人を犯す理屈になるからである。

また「自殺」は犯した罪を認めた事にならないため、禁じられており、あくまで「死の恐怖」を味合わせる事こそが「死刑」の「死刑」たる由縁。

死刑囚が処刑される際、牧師、お坊さんに看取られ、死刑執行人の手が下され、屍は丁重に葬られる。

死刑囚の死により、犯した罪の真相はそこで問われることなく、同じような犯罪が起こっても社会的問題は推論される事なく、死刑囚の死が繰り返され、防犯の理念に欠けるという見方もある。

犯罪を個人に帰結させるのが「死刑」でありだろう。

「あの世」なるものを信じる宗教観を持つ者たちは「あの世」に罪人を送る事を嫌うし、「輪廻転生」の仏教では「無限地獄」を恐れる。

罪人をどう許すかは、生きた者に科せられた枷であり、「死の恐怖」を味合わすのが「刑」ならば、病で死に際の苦しみもがくのも「刑」になってしまう。

「死」を刑罰のひとつとして捉える事は「死」にたくないと思う人たちにとっての「刑罰」であり、「死」にたい人にとっては「刑罰」になりえないという話もある。

「刑務所民営化」で囚人はお客扱いされるようになったと云われる今、「罰」のあり方が問われているのだろうし、ゴミ箱代わりの「死」は「死」の冒涜として問われているのだろう。

誰もが迎える「死」を「刑」にしちゃ、あまりに生きる者の身勝手のような気もするし。

  • OhmyNews : 「死」は刑ではなく、「死の恐怖」が刑である

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