人は何故、旅をしたがるのだろう。
お腹の調子も落ち着きはじめ、荻上直子監督の映画「めがね」を観ていて、思う。
「観光するところはありませんか?」の質問に「何故、ここに来たのですか?」と問い、「たそがれに来たんじゃないですか?」と導かれるなか、「携帯の使えないところに来たかった」と答えるタエコは、泊まった宿の住人たちにいらつきながらも、そのいらつきが自分の問題であり、住人たちのスローライフに、いらつきの解決を見いだしていく。
「何故」を問いただし、目的があることに安堵したがる風潮は目的がどこにあるのか曖昧は緩い暮らしを嫌い、スローライフの意義を定義したがる。
定義されないから、スローライフでいられるのに、目的のあるスローライフという摩訶不思議なものが世の中を支配する。
旅なるものはその典型なんじゃないだろうか?
自分探しの旅は探すほどに疲れた自分がどんどん見えなくなり、単に気分転換が得る結果のような気がする。
相変わらずの怪演を演じていたもたいまさこの自然さは自然であるが故に怪演なのかも?
映画「めがね」は賛否が分かれたようだけど、叶わぬ夢と観てしまうと、ハードワークな世界がまかり通ってしまう気もする。
スローライフがたまらなく嫌な人は嫌でかまわないけれども、スローライフを選べる権利だけは残して欲しいもの。
「人間、死んだらこの魚と同じよ」と魚をさばくもたいまさこは生きているからたそがれられる事を知っている。
身動きできるうちに、入院治療を受けられ、たそがれの時間を得られたことに感謝しながら。
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