「JRAディープ・インサイド 知られざる「競馬主催者」の素顔」を読み終え、「公正な競馬」とは「管理する競馬」であるべきか、どうかという議論が、競馬は「ギャンブル」なのか、「スポーツ」なのかとリンクして、日本の競馬に対するイメージがおかしくないかという展開が凄く面白く、「競馬」を「庶民」「政治」に読み替えると、官僚主体の政治社会から抜け出せないで、国際化できない日本の姿とだぶって見えてくる。
競馬はもともと庶民が家畜馬を競わせ、仕事の疲れを癒す憩いの場であったものが、商業化していったのだろうけど、海外では「スポーツ」として広まり、そこに群がるマフィアなどの暴力団の排除とは別次元で発展していったのだけれども、日本は馬喰の娯楽がやくざ社会が仕切る「ギャンブル」のイメージに塗り替えられて、そこからの脱却としての競馬振興が始まっているからか、「スポーツ」のイメージはあまりない。
馬喰という庶民の職種を卑しい物とすることから始まる近代日本の価値観が、欧米に対するコンプレックスから来るものなのか、日本の庶民伝統に対する卑下なのか、あることが、同じ競馬文化を持ちながらも、これほどの違いがあるのだろう。
海外の競馬で未成年が馬券を買ってはいけないとする規則などないというのに、日本は馬券を買ってはいけないとする規則が未だに残り、また、騎手の不公正な行いに対する摘発なども海外ではそれ程騒がれないのに、日本は三流マスコミの煽りを受けて、社会問題にまで拡大するほど、「不公正」に対してのアレルギーが強い。
国民性というより、そういう土壌の元、管理社会を作り出す事で糧を得られるシステムが日本の社会なんだろうなと、この本を読んでいて思った。
JRAの職員はその「管理する競馬」の低迷にどう管理し治せばいいか悩むけれども、ガードマンにお立ち台から見張られ、馬券を買う競馬ファンは、平成の時代が始まる前夜、絶頂期を迎えた競い合う競馬が、だんだん馴れ合いになり、勝負が見えたら、ゴール前に試合を投げ出す騎手に失望し、競馬場に来る客は昔ながらの常連のみになってしまっているという。
この本の発売時、競馬場に足を運ぶ競馬ファンの平均年齢は50歳前後だったらしい。今、単純換算して、競馬ファンの平均年齢は60歳前後、家族揃って「草競馬」の観戦は望むべくもない。
日本の庶民の娯楽は国際化出来ずに廃れていくのだろうか。政治も同じと思うけど。
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