バツイチ同士のカップルに授かった子どもの背中に翼が生えてきて。
現代の寓話にしてはシビアな状況設定なので、戸惑いながら観たのだけれど、おそらくフランソワ・オゾン監督は「翼をなくした人間たち」をシニカルに描こうとした物だったんじゃないかなと思っている。
「翼をなくした」がために、相手を縛り付け、自分の手の届くところに置いておきたい。そんな束縛欲を天使の羽根を持つリッキーはやすやすと振り解いてしまう。
作品紹介のサイトなどで、家族の再生とかなんとか書いているけど、フランソワ・オゾン監督が素直にそんな話を作るわけがない。
「翼をなくした人間たち」の孤独は互いに縛り付け合う事。疑り合う事。意味を求める事。なんだろう。
震災や原発のニュースで、子供達への影響を懸念する話がTwitterで流れてきて、一番身近な守るべき生命を度外視した議論が、滑稽に思えてくるし、それこそ「翼をなくした人間経ち」の空論なのじゃないだろうかと。
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