2007-08-30

浪人街 Rônin-gai

昨日は残暑日の中、定期薬を貰いに病院へ行き、その帰り、札幌市内縦断のビデオ屋巡り。

昨日の収穫は日本映画の父、牧野省三の子供で、父の借金を返すためにギネスに載るほど映画を撮ったマキノ雅弘(本名 : 牧野正唯、改名歴8回に及ぶ)の代表作『浪人街』のリメイク版と同じくマキノ雅弘が国賊映画と称された長谷川一夫の女形映画を撮った後に戦争協力として作られた戦時中の映画『野戦軍楽隊』と『不沈艦撃沈』。

わいわいやるのが大好きで、「おもろうないとあかんでえ」のマキノ雅弘がどのようなお国のための国策映画を撮ったかも気にはなるけれど、ここでは日本映画の青春期、マキノ雅弘と同じく映画と寝た男、山上伊太郎の代名詞とまで云われる『浪人街』のご紹介します。

強い奴、弱い奴、面白い奴、馬鹿な奴、色んな奴が 集まって

そんな文句から始まるこの映画、オリジナルが作られた当時は関東大震災によって東京の撮影所が破壊され、京都の撮影所が活気を帯びていた頃、「一スジ・二ヌケ・三ドウサ」(一に話の筋立て、二に撮影、現像の技術、三に俳優の動き)をモットーに映画を撮っていた牧野省三の元、映画に夢を投じた若者たちも自ずと集まり、作られたという作品。

浪人街の白壁に、いろはにほへと と書きました

この名文句で終わる『浪人街』はその後、映画の青春の象徴として、語り継がれ、数年前にも舞台化されたからご存じの方も多いはず。

「裏切ったんじゃねぇ、表返ったんだ」の名文句などもここから生まれた。

原作を書いた山上伊太郎はあのバカな戦争で陸軍軍属となり、フィリピンに赴任、ルソン島北部のキャンガン部落付近で行方不明となり、遺髪すら入っていない骨箱が、戦死公報と共に届けられた。

勧善懲悪の枠をはみ出した群衆劇のオリジナル『浪人街』も戦火で観る事も叶わず、山上伊太郎のこの世に残された物はその遺稿集のみ。

まさに『浪人街』を地でいく生き様は山上伊太郎らしくもあり、だからこそ、後々語り継がれもしたのだろう。

この暑い最中、昨年のアメリカの猛暑の原因が温室効果ガスだったとの分析が発表されたとのニュースが今頃、流れる。

バカは死ななきゃ、判らない
踊るアホウに観るアホウ、同じアホウなら踊らにゃ損ゝ。
後の祭りにならぬよう

映画化された現存する『浪人街』も11月にやっとDVD化されるようだけど、それまでこの世はあるのかな?と観ちゃった幸福にシニカルな笑みが出てくる。

この世は仮の宿なり。明日の夢は明日見ればよいのじゃないかと、大震災を経験した先人たちの教えを思いもする。

色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず
(いろは歌)

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