人間誰でも望もうが望むまいが、生まれる時と死ぬ時は人様が手を貸してくれる。
生まれる時は助産の手助けを受け、死ぬ時は納棺師によって身体を清められ、あの世に旅立つ。
昨年度のキネマ旬報ベスト1に選ばれた『おくりびと』を観てきた。
『病院へ行こう』などライトコメディの中に社会の矛盾を描く事を得意とした滝田洋二郎監督はここで人生の見送り人、納棺師の仕事をつぶさに描きあげていた。
何故か忌み嫌われる人生の見送り人たちの死者に対する尊厳ある身繕いは、忌み嫌われる由縁など何もないはずなのに、「死」を扱う仕事だから嫌がられるのだろうなぁと漠然と思う。
実母の納棺は間に合わず、立ち会えなかったけれど、養父の納棺時には納棺師のその仕事ぶりには感謝したくなった記憶が蘇る。
映画の中、「人生最後の買い物は他人が決めるのよね」とランク分けされた棺桶の前で語られるように、一番肝心なはずの生まれる時と死ぬ時は我が身を人様にゆだねるのが、この世の習いであり、どんな死に方をしてもそれは変えようがない。
「生き物、生きるために死んだものを食べて生きている」と鶏肉を食事中に皮肉たっぷりに語られる納棺師の社長は食べながら「うまいからなお悪い」とシニカルに笑う。
死とは何なのか、生き物の死がなければ、人は喰うに困るのに、死を忌み嫌う。
斎場の火葬場の職員であるお爺さんが「死は門だと思う」と語る時、人生の見送り人、納棺師の仕事の意味が掴めてくる。
「お疲れ様でした。いってらっしゃい。」
この世というものに固執するあまりに、「死」を遠ざける我々の廻りにあるのは「死」の恩恵。
安眠の地に導く人たちはまるでその故人の生涯の汚れを拭き取るかのように、故人を清め、故人に死に化粧をし、遺族に死に水を与えるよう促す。
納棺師の会社のカレンダーに一週ずつ曜日がずれてマーキングされた友引の日が思い浮かぶ。
時間に追われ、友引なんぞ迷信と云われるご時世、亡くなる時くらいはみんなに泣かれて死にたいもの。そんな事を云うのも忌み嫌われるのでしょうかねぇ。
0 件のコメント:
コメントを投稿