2009-01-22

福祉的 Welfare

年開けて、二週間、週三日出勤だった平日の仕事も今週から平常稼業となり、なんとか一週間を過ぎ終えた。

お手伝いとして、福祉的な仕事に携わる方々の座談会のテープ起こしをお手伝いしたのだけれど、録音状態が悪く、悪戦苦闘の一週間だった。

けれども、その結びの箇所は福祉現場で働く方々の想いが語られ、共感する内容だった。

長年関わられている福祉の仕事で、高齢になられ、後継者を育成する立場になられた方々と知的障害を持つ方々の身内の方の座談会は、当事者たちの高齢化、福祉行政の経費削減、後継者育成の足かせと議論は多岐に及び、どれもがマトリックスのように絡まり合い、身動き出来ない今の状況の中で、お話しされている方達が学び教えられた福祉の師の思い出話から今の状況で活用出来る事はないかという話し合いで、福祉の師が悪戦苦闘されていた頃は何もないけれど、なんでも出来た時代であり、今はない物はないけれど、何も出来なくなってしまい、あの頃より大変なのじゃないかという話がなされた。

当事者である障害を持たれた方達は長くは生きられないと言われ続け、身内も覚悟を決めていたものの、その当事者も高齢化して、身内よりも長生きするかも知れないという不安に変わり、「明日かも知れんし、明後日かも知れない」どちらかの死に対する備えが出来ているのかという話へと向かう。

福祉現場では当事者に対する身内の思いは親と兄弟では全然違う。兄弟は文句を言えても、親は文句を言えない。障害を持った当事者を「あぁそう、そんなに気にくわないんなら、連れて帰れ」といわれはしないか心病み、我が子を人質にされた様な立場にいるのはやはり親。

だからこそ、職員と親兄弟は五分と五分でいなきゃならないのだし、職員は「人の生き死にを握っている恐ろしさとか、人の不幸を握っている恐ろしさを、知って、知り」しなきゃいけないと力説する。

この話を聴き、福祉の廻りにある「運動」だとか、「法律」だとかにこだわる馬鹿らしさをつくづく思った。

「生活」を守るから福祉であるのに、その「生活」の備えもせぬまま、「運動」だとか、「法律」だとかに舞い踊るのは、自分の首を絞めているようなものじゃないか。

「生活」を顧みない「政治」の中で、人々は確実に老いて、死と向き合っている。

何でもあるけど、大事なものは何もない「今」をとある福祉現場は見つめ、どう動こうか模索している。

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