行動パターンから自閉と思われる、年の頃なら20歳前後の人をよく行くスーパー銭湯で始めて見かけた時、何気なくその人の行動を見ていると、湯船につかっていて、はしゃぎそうな発作が起きそうな時に、必ず手をあわせ、合掌する姿に、面白くもあり、おかしくもあり、けれども本人にしたならば本物の祈りであるだろうと、ちょっと愛おしく感じた。
身体の不自由さや持病を持つ者たちにはおそらくこの人のような思いを必ず経験しており、そうなりそうな時、ハタ目から見れば滑稽なほどに、怖れを抱いているのだろうと思う。
自閉の定義の話を聴く機会があり、知った事なのだけれども、1) 対人的相互反応における質的な障害、2) 意志伝達の質的な障害、3) 行動、興味および活動の限定され、反復的で常同的な様式という三つ組みの障害といわれる物すべてが揃った時に、自閉と診断されるそうで、もっと判りやすく云えば、空気が読めない「KY」、人の気持ちが分からない、物事への執着が強いなどであり、三つ組みにはならない二つのみならば、大多数の人間が極論、自閉予備軍となるそうで、自閉というものはけして特殊な状態ではないそうである。
エリート進学校の生徒なども三つ組みの障害が当てはまる事例は多いらしく、顕著に見られるその本人の行動パターンや執着心を如何に伸ばしていけるのかが問題であるらしい。
身体の不自由さや持病を持つ事にしたって、迷惑かけるからという論法での封じ込めであり、身体が不自由というだけで本人が責められる道理などどこにもない事である。
「迷惑かけて何故悪い、迷惑かける事が君たちを知って貰う事なのだ」と1980年当時描かれたテレビドラマ「男たちの旅路 車輪の一歩」は働く事が社会参加とされ、社会参加出来ないお荷物扱いされていた障がい者たちの生活を赤裸々に描いたものであったし、同じく「男たちの旅路 シルバーシート」は定年退職して社会に相手にされなくなった年寄りたちの抵抗を描いたものだった。
人間として当たり前の悩みや苦しみが日本というこの国では「迷惑な事」「個人的な事」と抹殺される、それはここ最近、要領を得た若者たちにより顕著になっているように感じられる。
風邪をひいていても無理をして出て来て、「平気、平気」と咳き込みながら仕事をしていれば頑張っていると認められる。身体が弱く、すぐに風邪など貰ってしまいそうな人も職場にはいるのに。
僕も歳とともに大病の心配を気に病むようになり、出来るだけ無理しないように心がけているけれども、それが逆に怠けと受け取られかねない事もままある。
そんな時、僕は心の中であの祈る人になる。「ここで体調を崩したくない。」体調を崩した報いは健康管理出来ない本人にあると、社会から疎外されてしまうから。
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