先週の共同連名古屋大会の事を思い返し、咀嚼していて、まず一番感心したのは「互いに助け合う」という理念だったような気がする。
「互いに助け合う」と言葉にするのは簡単だけど、どう助け合うかは「互い」を知らないと「助け合う」にはならないのだろう。そして、「助けて貰った」という自覚がなければ、「助け合う」にはならない。つまりは「互い」が問題なのじゃないかと思う。
それは能力と能率の違いだろうし、個々人の能力を理解しなければ、能率ある仕事は生まれてこないというビジネスモデルなのじゃないだろうか?
愛知県のわっぱの会が展開する事業所の紹介で、障害スタッフと健常スタッフの人数がそれぞれ示されており、この業種は障害スタッフが、別な業種は健常スタッフが多く配置されており、それが意図的なのか、人員不足なのか気に掛かった。それは一緒に紹介されていた滋賀県の「がんばカンパニー」、「ねっこ共働作業所」にも云える事で、意図的に人数配分をしているのであれば、なかなか面白いビジネスモデルのようにも思えてくる。
こんな事を何故思うのかというと週末に勤めている仕事で、それこそ30年前、入ったばかりの頃、僕の障害程度で出来る仕事は何かを検討してくれた記憶があり、あれがいわゆる「適材適所」の考え方なんだろうなぁと思うわけで、この頃の風潮となっている誰もが何でもこなさねばならないという能率的には悪すぎ、能力を無視した仕事のあり方に対する疑問にもなっている。
能力と能率は様々な仕事と無数の人がいるほどに効率を上げられ、日本の三大都市圏のひとつ、名古屋ではおそらくその辺が十二分に考えられているのじゃないだろうか。
じゃ、人も仕事も少ない200万都市札幌は何が出来るのか、人も仕事も少ないから、公共事業が肥大化して、何でも公共事業にしてしまい、民間の力がそぎ落とされているような気がしてならない。
札幌ではまず見られないけど、東京、名古屋ではよく見かける地下鉄駅と近隣ビルの連結により、エレベーターなどのバリアフリーの確保なんかは、土地勘がないと混乱するけれども、互いの能力と能率を活かし合う街づくりであると思うのだけど。
大阪、橋下知事じゃないけれど、民間の知恵で「ない袖を振る」発想とは人と仕事を知るに尽きるのだろう。
札幌地下街が地元企業撤退で、大手資本のコマーシャル媒体としての出店ばかりになってしまった事なんて、札幌なのに札幌を売り出せないその典型例だろうし。
中部国際空港 セントレアも地元の土産もの出店より、東京バナナの店が目についたりしたけれども。