友だちのブログを読むと、「那覇VS札幌本日の最高気温31℃対32℃で札幌の勝ち。嬉しくないーーーーっ」とか。確かに。
数年前、今の若者は自分のことは理解して貰えないと思い、そのくせ、人のことは無関心と云われてたけど、この猛残暑の夏、週末の職場ではトイレで全裸の婆ちゃんが現れるなど、驚き、桃の木、21世紀なことが増えている。
人と人はどうすれば繋がれるのか、涼しくなれば分かり合えるのか、そんなことを思いつきで考えつつ、「最後の言葉 戦場に遺された二十四万字の届かなかった手紙」を読んでいる。
「ただいま」を云えなく死んでいった20歳前後の若者たちの残された日記と60年ぶりに再会する親族たちの物語を読み進むうち、震災忌である9月1日であることに気がつく。
南洋の島々で、飢え、マラリアに冒され、炎天と爆撃の中、死んでいった人たちはどんなに苦しかったろうと思うと共に、大正俳壇の富田木歩と新井声風の関東大震災の大火の中、逃げまどうことも出来なく、死んでいった人たちは人を思い、亡くなられたことを感じ入る。
「誰かを思い、あなたは死ねますか?」
戦火、震災下亡くなられた人を思うと、逆に今の「孤独死」の寂しさが胸に刺さってくるような気がする。
大正俳壇の富田木歩と新井声風のお話を花田春兆さん著作「日本の障害者―その文化史的側面」より。
木歩最後の日、大正12年9月1日。関東地方が未曾有の大地震に襲われ、東京の下町一帯が火の海となった日も、二人は最後の最後まで行動を共にすることになる。地震発生直後、実家の安全を確認した声風は、友の身を案じて直ちに浅草から向島へ駈けた。妹たちの手で辛うじて家の近くの空き地まで運び出されたものの、そこで途方に暮れていた木歩を探し当て、兵児帯(へこおび)で背中に括り付けて、ともかく火の来ない方へと逃げ始めた。だが、行く先々に新しい火の手が上がり、浅草方面に渡る橋も焼け落ちているらしい。大の男の声風にしても疲れてくるのは当然だった。妹たちを先に行かせて暫く、声風は川の土手の上に木歩を降ろした。木歩に食い込んでいた兵児帯は容易に離れなかった。一服する間もなく、危険はそこにも迫っていた。土手に逃げた人々の荷物が火の粉を浴び、煙を上げ始めたのだ。凄まじい熱気と人々の悲鳴。いよいよの時が迫っていた。"もういい、十分だ。俺を置いて逃げろ、逃げてくれ"木歩の瞳が必死に訴えていた。万感の思いで握手を交わして、声風は川へ身をおどらせた。ようやく泳ぎ着いた声風が振り返った土手には巨大な火の帯が走り、一瞬の後死の世界と化した土手に動くものは何一つ無かった……。