季節性感情障害の女の子を取り上げた重松清の初期の小説「四十回のまばたき」。重松清らしく、そういう女の子というだけで、偏見も同情もない描かれ方は、デビュー作「ビフォア・ラン」に出てくるノイローゼになりいなくなり、また戻ってきた女の子の描き方に似ていると思った。
「ビフォア・ラン」はその女の子を自分たちの「トラウマ」にしようとした男の子たちが、戻ってきた女の子の幻想に振り回される物語を80年代の高校生として描いたものだったけど、「四十回のまばたき」は冬になると結婚している姉の家に「冬眠」しに来る季節性感情障害の女の子を面倒見る「ぼく」が妻である姉に急に死なれた年もその子が「冬眠」しに来るという、不思議なシュチュエーションを持つ物語。
「ぼく」は翻訳家で、感情の起伏が乏しく、女の子は誰彼なく寝てしまう性分で、その冬は身ごもった身体で、「ぼく」の前に現れる。感情の起伏が乏しい「ぼく」は先立たれた妻が「男」と逢い、その帰りに交通事故で死んだ事をこだわりながらも、うまく感情表現出来ないでいて、どこか心の支えを義妹である女の子に求めてしまう。
そんな疑似家族の居場所捜しのような小説で、翻訳した小説の「作家」の来訪でなんとなく「居場所」らしきものが見えてくる寓話であった。
「四十回のまばたき」小説のタイトルとなったアメリカの口語英語で「うたた寝」を意味する文句を「作家」はこう説明する。
<うたた寝すれば、目覚めた時には、たいがいの悲しみや後悔は多少なりとも薄れてくれるもんだ。一晩寝れば、パーフェクトだな。ってことは、悲しむ事すら出来ないくらい深い悲しみだって、一冬ぐっすり眠れば春にはお釣りが来るんだぜ。>
寝る間も惜しむ現代は、眠らないだけ悲しみや後悔が心の奥底に積もり積もっているのかも知れない。
小説の中で、暑くはなく寒さで記憶力が整理されやすい冬の後に受験シーズンはあるらしいという話がされるけれども、人は本来、四季の移ろいの中、感情を任せていたのかも知れない。日の光の多い夏、紅葉始まる秋、雪景色の冬、そして、花芽吹く春。その頃に五月病というポピュラーな病気もある位なのだから。
一時間やって、30分休みの小学校の授業は人間の基本サイクルだという話を聴いた事もあり、寝る間も惜しむ「時間泥棒」が「季節性感情障害」という病名を作り出したのかも知れない。
人が繋がっていられるのは「四十回のまばたき」があるからなのかも知れない。
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