オーマイニュース記者の中で、父の日記事を書こうの提案に乗っかって。(笑)
「沖縄で戦死した兄を慕う父の想い」
私を育ててくれた養父が急死し、早いもので9年経つ。
父は昭和2年生まれ。若い頃は粋がり、悪さをたくさんやり、田舎町の警察でもよく顔を知られた男だったらしい。7人兄弟の末の方に生まれた父は血気盛んな時期が太平洋戦争にあたり、父の兄たちは次々と戦場に駆り出され、年の離れた姉と二親の面倒を見る立場となったらしい。
そんな父も戦場へ旅立った兄たちのように国のために勤めたいと兵役の年齢に満たないながらも志願し、軍隊に入隊し、神奈川県の平塚で出陣命令が下るまでと「炭焼き当番」をし、願い果たせず、敗戦を迎えた。
父の兄たちの戦死の知らせが次々届き、名前の書かれた紙切れが入っただけの骨箱が、兵役から帰った父の元に届けられ、父は正真正銘、家の主となり、体力自慢であったがために、北海道の炭鉱を二親と姉を抱え、渡り歩いた。
最も慕っていた兄が沖縄戦で死に、その恩給が家族の生活の足しにもなったけれど、最北の地、稚内の炭鉱で二親を亡くし、姉とふたり、また炭鉱を渡り歩き、脊椎の疾患を患い、長い入院生活を余儀なくもされ、ガリガリにやせてしまったりもしたという。
若い頃の苦労も笑い話となり、戦争の自慢話も「軍隊に炭焼きしに行った」と茶化しも入るようになった頃、食生活もよくなったせいか、父は糖尿を患ってはいたけれど、元気に働いていた。
そんな時、親戚に誘われ、沖縄旅行に父は行った。
帰宅後、愉しかった沖縄の話で盛り上がった時、1980年前後のその頃、建立された沖縄の戦没者慰霊碑で、兄の名前を見つけた話をし、写真に取り損ねた事をたいそう悔やんでいた。
そんな父を見、私は札幌の沖縄県人会だったと思うけど、戦没者慰霊碑に刻まれている父の兄の名前の部分を写真撮影して、送って貰えないかと掛け合った。
県人会の方はまずは地元に問い合わせると返事下さり、数週間後、撮った写真を届けて下さった。父のその時の喜びようは格別だった。
父の中の戦争体験を私は詳しくは知らないけれど、沖縄で戦死した兄を慕う父の想いは今でも深く胸の中にある。
沖縄という北海道から遙かにかけ放たれた土地で亡くなった父の兄。異境の地で刻まれた兄の名前を見つけ出した父の喜び。そんな個人の感傷など関心ないと今日、沖縄戦に関しても死者をむち打つような軍の歴史がまことしやかに語られる。
父は年末の雪降りしきる日、家の前の雪かきに出て、具合悪くなり、心筋梗塞でそのまま苦しまずになくなった。
女にだらしなく、家族を苦しめもした父ではあるけれども、そんな父の想い出を語り継ぐ事が、私の役目のようにも思われる。歴史に書かれない個人の命の歴史として。
- OhmyNews : 沖縄で戦死した兄を慕う父の想い
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