2007-06-07

「認知症」への再認識 Recognizing to "Acknowledgment syndrome" again

黄金三星 Three gold stars」をオーマイニュースにポストしたところ、書き足しをお願いされたので改訂版。


もうじき50代になる私たちの世代。高校の同級生のブログで時折見られる「認知症への不安」。

時の流れに支配されているような今の世の中、みんな何がしかの不安を抱え、生きている。ある者は安易な気休めを語り、ある者は数の力に頼りたがる。

「『認知症になったら周りの人は大変だけど、本人はわからないから楽だよ』なんて言っていたけど、そんなことは絶対にない」。

 ブログでこう語る彼女の心は、誰にも分からない。けど、誰の心の中にもあるような気がする。ある者はネガティブに、ある者はポジティブに。そして、身体の老い、周りの老いが「老い」の恐怖を加速させるように思える。

人間の究極の恐怖は「老い」と「死」だと言う。

映画『恍惚(こうこつ)の人』豊田四郎監督)は、日本経済が安定成長に入った1970年代を舞台にしている。顕著になり始めた定年退職者の「認知症」。かつてバリバリ働いていた父が、行く当てのなく出勤し、やりたくとも人目を気にしてできなかった醜態を出先で繰り広げる。その上、止めに入る者を殴り倒すといった問題行動を起こしてしまう。核家族化する中で彼の介護を引き受けざるを得ない嫁の地獄絵を見せつけ、森繁久弥演じる老紳士は失禁で排せつ物にまみれ、嫁に助けをこい、浴室で安心し、おぼれるという熱演をした話題作だ。

また、映画『人間の約束』吉田喜重監督)は、ご飯を食べたばかりなのに、食べ物をこい、禁じられると紙をむさぼり食う。そのくせ、女の色気は持ち続け、枕元の洗面器の水鏡で化粧をする老婦人と「認知症」になりつつも、妻である老婦人の介護を息子夫婦にだけ任せられないと思う老紳士の無言で交わされた「人間の約束」の物語。はさらなる醜態をさらす老婦人を見かね、夫はその手で妻を殺し、「認知症」がひどくなる中、牢獄に入れられる。「人間の約束」としての「殺人」は罪かを問うた作品だ。

どちらの映画もそれまで押さえつけられていた欲望が怒とうのようにあふれ出し、周りを苦しめ、本人を苦しめのが「認知症」という視点は共通している。

モラルで縛られた社会に生きてきた老人たちは我々の未来の姿であるだろう。モラルの向こうには、モラルの“無効”、つまり人間のあるがままの“姿”がある。

私の母は若くして、ガンとなり、意識明せきなまま、体中を転移するガンとの壮絶な戦いの末、体力を消耗し、亡くなった。

それを思うと「認知症」はある意味、救いのようにも思えてくる。

今、若年性の認知症も話題となり始め、人々は無意識に救いを求めているのかも知れない。

私のコレクションの1つである喜納昌吉りんけんバンドのライブを収めたビデオクリップで、観客たちと一緒に乱舞する歌い手の光景を見ていると、そんな現代人が忘れてしまったモラルの向こうにある人間本来の縛りのない姿が映っているような気がする。

CGよりリアル・アクションや地声がはやるという今日、それぞれの身体からも救いを求めて「イエローカード」が発せられているのかも知れない。

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