2008-03-07

弁天をのぞけばあとはかたわなり It is handicapped excluding the benten.

だいぶ前に書いた物で、その中で引用した「弁天をのぞけばあとはかたわなり」なる川柳に差別用語があるというご指摘を受けた。

戦前生まれの方なら、誰も知らない人はいないと云われるこの川柳を差別用語があるからどうのこうのと云われても、それこそ歴史をねじ曲げるのは差別用語の方にあるのじゃないですかと、一応は反論してみたけど、お判り頂けただろうか?

差別用語とされる「かたわ」なる言葉の元々のいわれはちゃんと調べていないけど、おそらくは「片輪車」から来るのだろう。

「片輪車」が「片輪」だから使えないとするのは使い捨て文化が盛んになった戦後の話で、物が貴重であった戦前は「片輪」でも使いこなせる事を良しとしたわけで、「片輪車」だからダメという価値観が差別のように思う。

この川柳、かたわではないとされる弁天も女性であり、男尊女卑から見ていけば、弁天もまたかたわであるわけで、この世の中、かたわでない者などいないとする考え方の方が理にかなっているようにも思う。

差別用語の成り立ちとして、被差別者からのクレームを避ける為に、マスコミなどが自主規制したものというのが、TVドキュメンタリー『放送禁止歌 唄っているのは誰?規制するのは誰?』などでも明らかにされているのに、いまだに差別用語だからいけないという物言いをされると世の中、どんどん声の大きな人の思いのままになるようで、恐ろしい。

戦後、映画などではそのような規制などなく、『気違い部落』なる映画も作られたりしたけれど、色と慾をむき出しにした“気違い沙汰"にみえるので人々が暮らす集落のコメディであるだけなのに、そのタイトルにより、ビデオ化も出来ないと云う本末転倒の問題なんかも聴いた事がある。

言葉の成り立ちや背景、汚い言葉でしか言い表せない事柄はむしろ綺麗事として、事なきを済ませようとする輩がいるから、使われるのではないだろうか?

富国強兵の近代化になり、出来ない「片輪」は役立たずと座敷牢に入れられた障がいを持った方達の「片輪」への怨み節は「片輪」という言葉にあるのではなく、「片輪」だからダメと虐げた人々への怨みであるのに。

人は皆、いつかは「片輪車」になるのに、その事は語ろうとしない経済優先社会が続いている。

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