2007-07-26

卑猥なオトナたち Obscene Adult

テレビのニュースで、無認可幼稚園の道路向かいにリゾートホテルと称したラブホテルが建設予定とかというのをやっていた。

リゾートホテルと称したラブホテルが建設という問題と無認可であるが故に教育の場と認められない問題が入り乱れていて、事を難しくしているのだけれども、幼稚園のそばにラブホテルが何故いけないのかがよく判らない。

僕など実母が勤めていたスナックのお姉ちゃんたちと幼稚園の時には遊んで貰っていたし、店にも出入りしていた。ついでに云えば、母が夜いないので、父とパチンコ店に入り浸りもしていた。

それがいろんな社会を知るきっかけになっただろうし、生まれつき不自由な体である僕も、物怖じせずに近所のお兄ちゃん、お姉ちゃん、同級生といじめられずに仲良くやれたのもこんな環境だったからだと思う。

教育上問題だとかいうこの手の話には子供に対して、面倒な説明はしないようにしようとするオトナたちのご都合主義が見え隠れし、世間知らずのコドモを作る一役を担っているようで気持ち悪い。

うちの母は当時でも変わり者だったようで、僕が私生児で産まれた事から、実の父の話や養父との結婚の話など、普通子供にはしないような生々しい話を聴かせてくれた人なのだけど、その事を感謝している。そのお陰でこんな親父になっちゃったりもしたのだけれど。

映画鑑賞の楽しみを教えてくれたのも母で、中学生になった僕を連れ、おそらく母の若き日の想い出なのだろう、『風と共に去りぬ』を観に行ったのが始まりで、当時話題になった馬の生首が映し出される『ゴッドファーザー』や強姦魔の少年を描いた『時計じかけのオレンジ』なども連れて行ってくれた。

さすがに『時計じかけのオレンジ』の時は母も連れて行った事を後悔したらしく、映画が終わった後、僕に感想を聴いてきた。

僕が素直に感想を言うと、母は主役の少年が部屋でダッチワイフに卑猥な事をする場面で連れてきて失敗した!と思ったらしいけれども、最後まで観て、見せて良かったと思っているよと、教えてくれた。

その時、母がひとりの相棒として、僕に母の考えを語ってくれた事が、その時の僕としては凄く嬉しかったのだろう。今も記憶に残っている。

僕が小学4年の時に母は乳癌となり、片方の乳を切除した。その時もその傷口を恥じることなく、僕に触らせ、一緒に風呂にも入った。

中学3年の時、母は癌の再発で入院し、僕は生まれつきの言語障碍を治し、母を喜ばせようとひとり東京へ治療に行くと言いだした。

母は東京に行く事を了承し、僕を東京にいる伯父に託した。

それから間もなく、母は膀胱と眼球以外すべての身体の部位が癌に冒され、のたうち回って、死んだ。

養父が僕を呼び戻すと言った時、母はそれを頑なに拒んだという。

人はいつかはひとりで生きていかなければならない。

母の人生訓にはそんなものがあったのだろう。

戦時中、仲良かった兄弟を戦地に送り出し、戦死の知らせに涙した母は、戦後、実家の家計を助けるために、食い扶持減らしとして札幌に働きに出て、一生懸命に生きた。

生きるために水商売も経験し、いろんな男たちとの愛もあった。

これ以上子供を下ろすと子供を産めなくなるぞ。

そう産婦人科の医師に言われ、産んだ子供。
難産で鉗子分娩で生まれた僕は半死状態だったという。

様々な生き死にとともに生きた母はこの世の卑猥さを教え尽くして、死んでいった。

綺麗事だけじゃ生きられないのに、子供には綺麗事しか見せようとしないオトナたち。そんな卑猥なオトナたちを子供達はとっくに見抜いていると思う。

オトナとコドモの化かし合いは、ホテル建設の是非より、認可、無認可の方にあり、それこそが教育上問題なのだと思う。

  • OhmyNews : オトナとコドモの化かし合い

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